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2019-04-05

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・前の山太郎編 若くして“限界”を知らざるを得なかった悲劇の大関――[その3]

好事魔多し、山の頂上は下りの始まり、というのはこのことを指すのに違いない。

※写真上=昭和45年名古屋場所後、大関昇進を果たした絶頂期の前の山
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】弟弟子・高見山と切磋琢磨しながら、順調に出世を続けた前の山。名門・高砂部屋の星としての地位を着実に固めていったが、どうして破れない壁があった。大横綱大鵬だった。だが10戦目にようやくその壁を崩し、大関に向かって突き進んでいく――

二重の喜びに湧く名門

 高砂部屋は、その名前が示すように高砂一門の本家、中心である。その高砂部屋に、朝潮(横綱、4代高砂)以来、13年ぶりの大関前の山が誕生したのは昭和45年(1970)7月22日のことである。昇進を伝える朝日山監事(元前頭二瀬山)と振分審判委員(元横綱朝潮)の二人が名古屋市東区内の高砂部屋の宿舎に到着すると、部屋の関係者や、一門の喜びようは大変なもの。

「さあ、次は横綱だ。頼んだぞ」

 という熱っぽい叱咤があちらこちらから飛び交い、

「ようし、教育係はオレに任せておけ」

 と、この3年前に出羽海一門からこの高砂一門に移籍してきた九重部屋の横綱北の富士が買って出た。本家のホープならではの一門ぐるみのバックアップである。

 そして、この昇進祝いもそこそこにもう翌日から新大関デビューの秋場所に向けての稽古が始まった。

「いまは、場所が終わると、力士たちにはキチンと一週間の休みが与えられるけど、あのころはそんなもの、ありゃあしない。特に、ウチの師匠(3代高砂、元横綱前田山)は稽古、稽古の人だったからね。稽古始まりはいつも、千秋楽の翌日、と決まっていた。つまり、ウチの部屋には一日も休みがなかったんだよ」

 と先代高田川親方(元大関前の山)は、高砂の荒稽古について語る。

 8月の夏巡業が終わり、両国の町に秋の気配が漂い始めると、約束どおり、北の富士も高砂部屋の稽古場に日参。前の山の稽古にもますます熱がこもってきた。

 大関昇進のほかにもう一つ、稽古に駆り立てる強烈なエネルギー源があったのだ。

 二昔前まで力士の結婚というと、親方や有力講演者らの紹介や、お見合いが主流。現在のように恋愛結婚はほんの一握りだった。ところが、情熱家の前の山は、幕下時代に知り合った当時女子高校生の良美さんと、5年越しの愛を見事に実らせてしまったのだ。

「結婚したい女性がいます、と師匠に言うと、『いまはそれどころじゃないだろう』と、目から火が出るくらい怒られるのは分かっていたので、大関になる1年前の3月、両方の肉親だけ呼んでこっそり内輪の式を挙げたんだよ。おかみさんに、実はこうこうで、と話したのは大関取りの直前。もうそのときには長女が誕生、いつまでも隠しておけない状況だったんだ。あの大関昇進は、師匠にこの結婚を許してもらい、合わせてマスコミにも公表する願ってもないチャンス。幸いにも、周囲の骨折りでこっちのもくろみどおり行ったんだけど、それまで女房や子どもにはいろいろ肩身の狭い思いをさせていたからね。ここで頑張らないと、と燃えなきゃウソだよ」

 と先代高田川親方は情熱の日々のことを打ち明ける。

新大関の昭和45年秋場所直前、右足首を骨折し休場を余儀なくされた
写真:月刊相撲

力士生命が燃え尽きた日

 しかし、この二重のやる気が仇に。

 いよいよ初日まであと1週間と迫った朝のことだった。いつものように出稽古に来てくれた北の富士に胸を借り、

「さあ、今日は、これでおしまいにしよう」

 とお互いに目配せしたその日最後の稽古で、前の山は脳天を思いっ切りぶん殴られたようなとんでもないアクシデントに見舞われてしまった。北の富士の激しい寄りを、俵に足をかけながら残した瞬間、右足首のあたりからボキッと不気味な音がし、頭の芯がしびれるような痛みに襲われた。

 ただちに担ぎ込まれた病院の診断は捻挫だったが、あとでもう一度、精密検査を受けたら、足首のところに亀裂の跡がクッキリと写っていたという。実は骨折だったのである。

 もちろん、相撲どころではない。こうして、前の山は協会に休場届を出し、一転してギプスで固定した右足を抱えて天井を見て暮らす羽目に追い込まれてしまった。

「出鼻をくじかれる、というのはまさにあれ。あそこでトントンといってたら、横綱昇進の目もあったかもしれないけど、性格的にあのケガでオレはおしまいだったね。あとはもう付録みたいなもんさ。大関を滑り落ちたとき(47年春場所)、本当は辞めたかったんだけど、なにしろまだ27歳だもんな。あんまり若かったもんだから、それから2年、29歳になるまで歯を食いしばって我慢したんだ。そこまでやればなんとか親方にしてもらえるんじゃないか、と思ってね。だから、引退したのは29歳の誕生日のちょうど1週間後だよ」

 先代高田川親方は一瞬にして力士生命が燃え尽きた日のことを振り返った。

 ちゃらんぽらんは、やる気がないのではなく、一気に燃え上がり過ぎて、最後までエネルギーが持続できないために起こる現象。真夏の太陽のような強烈な情熱家だけに悲しい弱点なのである。

 この日、前の山は、足首の痛みに耐えながら、運命の皮肉さをしみじみ噛みしめていた。このときの前の山の一番の悲劇は、横綱の夢破れたことではなく、27歳というまだ花も実もある年齢で自分の限界を悟ったことだった。(終。次回からは横綱・旭富士正也編です)

PROFILE
前の山太郎◎本名・清水和一。昭和20年(1945)3月9日、大阪府守口市出身。高砂部屋。187cm130kg。昭和36年春場所、本名の金島で初土俵。37年夏場所に前の山に改名。40年九州場所新十両、41年秋場所新入幕。44年名古屋場所に前乃山に改名。45年名古屋場所後、大関昇進。46年初場所、前の山に改名。幕内通算46場所、343勝305敗34休、殊勲賞3回、敢闘賞2回。49年春場所で引退し、年寄高田川を襲名、同年4月、分家独立し、高田川部屋を創設。小結剣晃、前頭鬼雷砲らを育てた。平成22年(2010)3月停年。

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