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2019-04-02

私の“奇跡の一枚” 連載9 北の富士関渾身の不知火型土俵入り

平成24年(2012)が大横綱双葉山の生誕100年に当たることから、前年12月、その出身地大分県の宇佐神宮で、横綱白鵬関が、双葉山関の型である雲龍型土俵入りを奉納して人々を感激させた。

※写真上=このときの写真は『相撲』の締め切りを過ぎていたため、秋場所展望号には間に合わなかったが、私のカメラに収まっているという噂を伝え聞いた、相撲編集部の「横綱土俵入り大好き人間」S氏執念の捜索によって、翌昭和46年10月号(秋場所決算号)で世に出たものである 
写真:床松

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

巡業地で人気横綱のタブー挑戦に大興奮

 実は私にも同じような経験がある。約40年前のことだが、古い体質が色濃く残っていた時代に、おそらく史上初めてのことに挑戦したその横綱の燃えようも、周囲の熱い興奮ぶりも、昨日のことのように覚えている。

 昭和46年(1971)夏巡業での出来事だ。当時の相撲人気もあって、大相撲一行は本州班と北海道班と2つに分かれて行われ、日数も非常に多かった。

 北海道班の顔は道産子横綱北の富士関、本州班がライバル横綱玉の海関。

 この前年入門したばかりの私が付いていたのは、本州班だった。ところが、玉の海関は体調が優れず、巡業の終盤に盲腸炎で帰京、入院という事態に。つまり本州班は横綱がいないまま旅を続けていた。

 一足先に北海道巡業を終えた北の富士関は、協会の看板の自覚、また玉の海関との友情から、玉の海班の打ち上げ地である八郎潟巡業に駆けつけることを申し出たのだった。

 ただ、単身駆けつけることと、玉の海関の代役で来て、その綱を締めるのだから、土俵入りの型も自身の雲龍型ではなく不知火型でいく、とは最初から決めていたようだった。

 横綱北の富士関は、とにかく明るく、何をやってもカッコ良くて、人気も絶頂の時代。まして同じ道産子の私にとっては憧れの存在だった。

 その横綱が、ニコニコ顔で目前に現れ、「さあ、不知火型土俵入りをやってやるぞ!」と、まさにルンルン気分、支度部屋で一生懸命せり上がりの動作を繰り返している。噂はたちまち力士の間に広がった。

 いざ時がやってきて、片男波部屋の力士たちによって玉の海関の綱を締めた北の富士関は、腰回りも同じようなサイズだったこともあって、実にその体に似合っていた。

 さまざまなポーズを取りながら周囲に「本番もちゃんと写真撮っといてくれよな」と終始ご機嫌の横綱。

 そこで知人にカメラを渡して土俵下に潜り込んでもらい、私自身は花道へ。ただでさえお客さんがはみ出しているところに、協会関係者が押し寄せたものだから、その混雑ぶりといったらなかった。

 暑い露天の会場で息を凝らして大観衆が見守る中、土俵入りは始まり、横綱が長い両手をパーッと鮮やかに広げて、下段の構えに入った瞬間には、「やった~!」と、人々の興奮は最高潮に達した。

「どうだ、カッコ良かったろう!」。土俵入りから引き揚げてきた横綱が日本一の笑顔を見せたことは言うまでもない。この“歴史的快挙”を目の当たりにした体験は、私の人生の中でも大きな誇りとなっている。

語り部=床松(春日野部屋、特等床山、本名・松井博)
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成24年10月号掲載

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