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2026-09-11

「有料配信プロレス」の元祖を誇った西海岸が、その先進技術で破滅した皮肉【プロレス史あの日、あの時1964年9月2日/週刊プロレス】

64年5月27日、ロサンゼルスでおこなわれたディック・ザ・ブルーザーvsフレッド・ブラッシーの金網デスマッチを報じた「プロレス&ボクシング」64年7月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1964年9月2日
アメリカでプロレスのローカル・ケーブル放送がスタート@ロサンゼルス&サンフランシスコ
 
62年前の「スポーツ毎夕」の新聞記事が手元にあるが、その冒頭をそのまま引用してみよう。

「有料テレビ放送とは、放送線を加入者の電話線を使って、普通のテレビ受像機に送り込むもの。調整器によって3つのチャンネルを自由に選ぶことができる。カリフォルニアのプロレスのテレビ視聴率は全国でも1、2位を誇っており、わざわざ3000キロも離れた東部のイベントを時折放送しているのは周知の通りだ。この有料テレビの視聴者は、各プログラムごとに相応の料金を支払う仕組みになっている。たとえばニューヨークのフェニックス劇場のミュージカルを見たときは2ドル、リグレイ・スタジアムのフットボールの大試合を見た時は1ドルという具合だが、このクローズド・サーキットと呼ばれる方式が9月2日からカリフォルニア州のプロレス興行にも試験的に導入されて、ロサンゼルスとサンフランシスコで開催されるタイトルマッチを有料で電話回線に繋ぎ、有料で提供しようとする試験放送がおこなわれる」

「クローズド・サーキット」というワードは、今から50年前の猪木・アリ戦の開催を契機に日本に定着した(日本以外の国では、その方式で流された)。一般家庭のテレビ地上波では放送せず、見たい人は近くの映画館、もしくは劇場に足を運んで有料で見るという形式だが、「どんなビッグマッチも、テレビで無料で見られる」という感覚に慣れきった日本では定着することなく、アメリカのような成功をみなかった(1989年に新生UWFが何回かトライしたが、継続できず翌年に撤退)。もっとも、アメリカにおける家庭における有料放送(ケーブル・システム)も即刻成功したわけではなく、本稿の1964年9月から西海岸でボチボチ試験放送が始まっただけのレベルに終わって、本格的に普及率が高位安定し始めたのは1979年に入ってからの話だった。プロレスで初めてケーブルのネットで全国放送されたのは、ジョージア州アトランタのジム・バーネットが地元TBSテレビ(テッド・ターナー率いる大会社)のスタジオで製作した「ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング」という2時間番組で、これがヒットしたことからジョージア地区にいたトップスター、たとえばトミー・リッチやテッド・デビアス、アームストロング三兄弟、ミスター・レスリング2号などが一気に「全国区の顔」になって、NWAの主要マーケットからの誘いの手が頻発するようになった。

ところが、TBSに有料をやられた結果、一番迷惑をこうむったのが、この新聞にもあるように「ケーブル・プロレスの元祖」でもあるロサンゼルスとサンフランシスコだったのだから、皮肉なものだ。ミル・マスカラスやチャボ・ゲレロを抱えて70年代には絶対の人気を誇ったロスは、新しい人気スターが定着せず衰退。同じくサンフランシスコも看板のレイ・スチーブンスとパット・パターソンをAWAに引き抜かれてから凋落の一途を辿り、アトランタからの有料番組を視聴する環境が一気に定着してしまった。絶対的な人気を誇ったNWAの「地区ごとのテリトリー・システム」が崩壊した最大の原因は、実はこのケーブル・テレビの普及だった。81年秋にサンフランシスコのロイ・シャイアが、ロサンゼルスのマイク・ラベールも82年9月に興行を停止して、西海岸のプロレスは終焉を迎えた。ロサンゼルスで「最後から二人目」のアメリカス王者(1982年8~9月)として活躍したキッド・コビー(小林邦昭)の雄姿を、ぜひベースボール・マガジン社から絶賛発売中の「初代タイガーマスク戦記」(カラー3ページ)で御覧いただきたい。

流 智美

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