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2019-02-22

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・大受久晃編 「牛若丸」を追いまくって生まれた押しへの信念――[その3]

※写真上=昭和48年名古屋場所、23歳4カ月で史上初の三賞独占と大関をつかんだ大受
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

史上初の快挙を生んだ“小さな工夫”

 山にも、屹立した険しい山や、なだらかで誰でも登れる山があるように、力士たちの描き出す“出世放物線”のかたちも実にさまざま。大受のそれは、典型的な急カーブ、屹立型と言っていい。

 この自分の押し相撲に自信を深めてからおよそ1年半、大受は、逆に前頭上位で行ったり来たりの低迷を続けたあと、昭和48年(1973)初場所からまるでおしりに超高性能のロケットエンジンでもつけたように、突然、目を見張るような急上昇を始めた。

 そして、その年の名古屋場所後には一気に頂点に。このわずか4場所で、大受は東前頭筆頭から大関昇進という、信じられないような離れ業をやってのけたのだ。その急成長ぶりを見せつける極めつけの一番が名古屋場所3日目の、横綱北の富士戦だった。

 自分の部屋に稽古相手がいない大受にとって、場所前の出稽古はいつものこと。この場所前は、最後の残り火がパッと燃え上がるように、再び元気を取り戻した北の富士のいる九重部屋に日参し、その胸を借りた。この北の富士のような上位の四つ相撲力士を破らないと、大関の目は見えてこなかったからだ。

 そのお世話になった“恩人”との対戦。思い切って頭から当たった大受は、北の富士に右上手を引かれたが、下がりながら振りほどくと、再度攻撃に転じ、大相撲の末にとうとう押し出してしまった。

 この場所、北の富士は、優勝決定戦で琴櫻に負け、惜しくも賜盃を抱くことはできなかったが、14勝1敗という現役生活最後の好成績を挙げている。その唯一の黒星がこの大受戦。いかにこの一番が力のこもった会心の相撲だったか、ここからもうかがえる。

「あのころは、相手は誰でも、廻しさえ取られなかったら怖くない、という頭がありましたからね。あの場所前、師匠から先々代の友綱親方(当時。元小結巴潟、小兵ながら“弾丸”というニックネームを持ち、昭和初期に活躍)が、廻しを取られないように縫って固くしていた、ということを聞いたものですから、自分もさっそく、いつも浴衣を縫ってもらっている両国の浴衣屋さんのところに廻しを持っていって、ミシンをかけてもらったんです。それがよかったのかもしれませんね」

 と楯山親方(元大関大受、のち朝日山親方)はこの快勝の意外な秘密を打ち明けた。小さな工夫が大きな喜びを生み出したのだ。

 この場所、大受は13勝2敗という素晴らしい成績を挙げ、史上初の殊勲・敢闘・技能の三賞を独占。場所後、それこそ胸を張って大関に昇進した。まだ23歳4カ月、という若さだった。

昭和48年名古屋場所3日目、場所前に胸を借りた北の富士を押し出し、大関取りへ勢いを付けた
写真:月刊相撲

大関昇進後、急激に失速

 ところが、その栄光もつかの間。この昇進の直後、日の出の勢いで上がってきた大受の相撲に信じられないような陰りが忍び込んできた。

 翌秋場所、せっかくの大関デビュー場所にもかかわらず、前半、2勝5敗と大きく負けが込み、ついに8日目から休場に追い込まれてしまったのだ。

 トントン拍子に上がってきた力士ほど、いったん失速すると、なかなか元のように立ち直るのは難しい。大受も、このときのカド番はなんとか切り抜けたが、その3場所後に再び襲った二度目のカド番はとうとう克服できず、なんとたった5場所で大関から転落。それから3年後の52年夏場所初日から3連敗後休場、10日目、あっけなく引退した。このときの地位は西十両筆頭。元大関の27歳1カ月の引退、というのは、2位の琴風の28歳6カ月を大きく引き離して、いまだに史上最年少だ。

 49年夏場所14日目、大受が大関の座を明け渡す8敗目を喫したのは、当時の高島部屋とは道路をたった1本隔てたところにある三保ケ関部屋の、21歳になったばかりの若き大関北の湖だった。

「あのときのことはもう忘れてしまいました。だから、勘弁してください」

 と楯山親方は苦笑いしていたが、このノーコメントが、逆にあの一戦で受けた大受の心の傷の大きさを浮き彫りにしている。それにしても、大受はどうしてこんなに急速に衰退したのか。

「ヒザのケガですよ。最初は右で、とどめは左。押し相撲は稽古が命なのに、最後のころは、またやるんじゃないか、と心配で、全盛期の3分の1もやれなくなっていましたから」

 楯山親方はこう説明したが、当時の高島親方の内部事情をよく知っている関係者の一人は、

「あの大関昇進を機に、師匠との折り合いが急に悪くなったんですよ。お金の問題をはじめ、当時交際中だった奥さんの敏子さんとの結婚を、『大関になったら許す』と言っていたのに、突然前言を翻して、『もうちょっと待て』と先送りにしたことなどですね。あれで、大受関は急にやる気をなくしたみたいでした」

 とまったく別な原因を挙げた。この目玉力士の乏しい小部屋ならではの師弟間のトラブルが、押し相撲に不可欠な集中力を奪ってしまったのかもしれない。こうして、土の匂いのする、と言われた押し一筋の大受は、あっという間に姿を消してしまった。

 引退後の大受は、高島部屋を出て伊勢ケ濱部屋に移籍し、55年から審判委員。のちに朝日山部屋を継承した。全盛は短くとも、押し相撲の神髄を見せた大受の生きざまは、人々の記憶に刻まれている。(終。次回からは、大関・旭國斗雄編です)

PROFILE
大受久晃◎本名・堺谷利秋。昭和25年(1950)3月19日、北海道久遠郡せたな町出身。高島部屋。177cm150kg。昭和40年春場所、本名の堺谷で初土俵、42年春場所に大受と改名。44年秋場所新十両、45年夏場所新入幕。48年名古屋場所、大関取りで史上初の三賞独占、場所後に大関昇進。幕内通算42場所、462勝388敗31休、殊勲賞4回、敢闘賞1回、技能賞6回。十両に陥落した昭和52年夏場所4日目、引退。年寄楯山から平成9年に朝日山を襲名、部屋を継承した。27年3月に停年。

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