close

2018-11-02

【連載 名力士たちの『開眼』】 横綱・2代若乃花幹士編 悲しみとの闘いの中で触れた人生の核心――[その2]

※写真上=腰の負傷を克服し、晴れて関取に昇進した若乃花(当時若三杉)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】隆の里とともに青森から上京し、力士として順風満帆なスタートを切った若乃花だが、いつしか椎間板ヘルニアが若い体を蝕んでいた。藁をもすがる思いで福島県石川町の整復院に通ううちに、復活の兆しを見せる――

可愛がってくれた横綱を撃破

 大きく頭を下げて師匠の部屋を辞しながら、若乃花は、

「こりゃ、今場所はいいことがあるかもしれんぞ」

 と小さくつぶやいた。石川町通いが功を奏し、十両入りしてからの若乃花は、また出世スピードが加速。この昭和49年(1974)九州場所は、入幕してすでに1年経ち、地位もその後の順調な成長ぶりを象徴するような、初めての三役の西小結だった。

 若乃花の腰が回復し、周囲を見渡す余裕ができたとき、すでに同じ昭和28年生まれの北の湖は、この1場所前の秋場所、21歳2カ月という史上最年少で横綱に昇進し、とても同年とは思えないような巨大な存在になっていた。

 そして、この北の湖と対立するライバルが、二子山部屋の本家に当たる花籠部屋の輪島だった。この学生相撲出身初の横綱輪島は、それまでの大相撲の常識を破るような派手な言動で、多くの誤解や批判を招いたが、陽気でカネ離れがよく、力士仲間の評判は決して悪くなかった。

 若乃花も、この一門のリーダーに可愛がられ、よく巡業先などで食事に連れて行ってもらっては、

「オレはお前たちよりも6つも年上なんだ。これから北の湖に対抗していくのはお前しかいないんだから、しっかりやらないと。そのためにも、早くオレを乗り越えろ」

 と叱咤された。

 その当面の目標の輪島に、初日のこの日、いきなり顔が合い、得意の左を差し、右もねじ込んでモロ差しになると、左足を飛ばして外掛けで重ねもちにひっくり返してしまったのだ。

昭和49年秋場所、初の三賞・技能賞を獲得した若乃花(左は殊勲賞・金剛、中央は敢闘賞・荒瀬)
写真:月刊相撲

二子山部屋初の優勝を寸前で逃す

 3度目の挑戦で目の覚めるような快勝。この会心の白星を真っ先に喜んだのは、滅多に弟子を褒めないことで定評のある師匠の二子山親方(元横綱初代若乃花)だった。

 意気揚々と宿舎に引き揚げてきた若乃花が挨拶に行くと、

「こっちに入れ」

 とわざわざ自室に招き入れた。

「よくやった。今日のあの立ち合いや、ワザを仕掛けたタイミングを忘れるんじゃないぞ」

 と目を細くして褒めてくれたのだ。とうとうオレも、かつて「土俵の鬼」と言われた師匠のメガネにかなう相撲が取れた。このことがまだ21歳の若乃花をどのくらい勇気付け、かつ自信を植え付けたか。13日目まで11勝2敗で魁傑と優勝争いのトップを快走、という成績を見るとよくわかる。

 残るはあと2日。1差で、強敵の北の湖も追いかけてきてはいたが、すでに若乃花の上位との対戦をすべて終え、残っているのは下位の力士ばかり。

「うまくいけば、まだ強敵が残っている魁傑が取りこぼし、逃げ切ることができるかもしれない。悪くても、決定戦進出は確実だ」

 と、虫のいいソロバンをはじいたのも当然だった。

 しかし、この小さな余裕が逆に足を引っ張ることに。14日目の福の花戦、千秋楽の大受戦と、いずれも押しや突っ張りを得意とする力士に、これまでの相撲っぷりがウソのように攻め込まれて連敗。なんともあっけなく優勝戦線から後退してしまったのだ。

 千秋楽、若乃花は支度部屋のテレビで、決定戦の末に前頭4枚目の魁傑が北の湖を破り、劇的な優勝をしたのを呆然と見ていた。

「もし優勝すると、二子山部屋からは初めての優勝だったんですよ。それだけに、周囲の盛り上がりは大変なもの。ところが、最後の2敗は、いずれも立ち合いにいっぺんに押し込まれ、簡単に負けたものですからね。勝負というのは、いかに最後の詰めが大事か。その後も何度か同じようなことは経験しましたが、あれほど身にしみて思い知らされたことはありません」

 と、引退してから随分経っても、若乃花の胸には苦い思いが脈々と息づいていた。

 若乃花が初めて賜盃を抱いたのは、それから2年半後、入幕25場所目の52年夏場所のことだった。(続)

PROFILE
若乃花幹士◎本名・下山勝則。昭和28年(1953)4月3日、青森県南津軽郡大鰐町出身。二子山部屋。186cm129kg。昭和43年名古屋場所初土俵、48年名古屋場所新十両、同年九州場所新入幕。52年初場所後、大関昇進。同年夏場所初優勝。53年夏場所後、第56代横綱に昇進すると若三杉から若乃花に改名。幕内通算55場所、512勝234敗70休、優勝4回、殊勲賞2回、技能賞4回。昭和58年初場所、29歳の若さで引退。年寄若乃花から同年5月に間垣を襲名、12月に分家独立。前頭大和、五城楼、若ノ城、若ノ鵬らを育てた。平成25年12月19日、退職。

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事