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2018-06-22

【連載 名力士たちの『開眼』】 小結・若浪順 編 酒をやめる気で一生懸命やったら何でもできる![その1]

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※細身ながら怪力を生かした吊り、打っ棄りと豪快な相撲を見せた若浪
写真:月刊相撲

忘れられない師匠からのご褒美

 どっちにしろ、この世の中は、そんなに難しく出来てはいない。好きな酒を飲みたかったら、このまんまじゃだめだ。しばらくの間、酒をやめて、相撲一本に打ち込むことにするか。

「なあに、ホンのちょっとの辛抱じゃないか」

 とトレードマークの長いモミアゲを右手でいじりながら、若浪は自分に言い聞かすようにつぶやいた。

 力士は、この世界に入門したときが成人式のようなものだ。二十歳にならなければ法律に違反するとかなんとか、口うるさいことを言いだしたのはごく最近のことで、昔から力士に酒はつきもの。年代を遡れば遡るほど、みんなふんだんに酒を口にした。

 若浪が酒好きなのは、もしかすると、「山の川」という四股名で素人相撲を取り、若浪の力士志願に大きな影響を与えた父親の血をそっくり受け継いだせいかもしれない。父親も大酒飲みだった。

「ウンと稽古したら、また師匠に一升、もらえるかもしれないぞ」

 これが昭和31年(1956)の12月、自ら進んで立浪部屋の門をたたいた若浪を稽古に駆り立てた一番のエネルギーだった。

 師匠は、新潟から上京して両国で銭湯の三助をしていたところを先代(元小結緑嶋)にスカウトされた、というエピソードを持つ元横綱羽黒山の5代立浪。苦労人だけに弟子たちのつらい気持ちをよく理解し、真っ黒になって稽古している弟子を見ると、稽古上がりのちゃんこのとき、

「きょうはよくやっていたな。ほら、褒美をやる。これを飲め」

 と酒を1升、ポンと差し入れてくれた。今と違って、当時の日本酒は貴重品だった。

「どうだ、オレ師匠にほめられたんだぞ、という一種の晴れがましさもあって、すきっ腹にグイッと飲む喉越しのよさは、なんとも言えなかったですね。もう何十年も酒を飲んでいるけど、あの師匠の褒美の酒に勝る酒は口にしたことがない。今でもときどき、ああいう酒をもういっぺん、飲んでみたいなあ、と思いますよ」

 と、それから30年余が過ぎ、とうとう50歳の大台にのった玉垣親方(元若浪)は懐かしそうに振り返り、喉をゴクンと鳴らした。

 若浪は、初土俵を踏むまで1場所、足踏みをしている。当時の身体検査の体重の合格ラインは19貫(71.3キロ)だった。ところが、なにがなんでも力士になりたい一心で、茨城県の猿島郡七郷村(現坂東市)からやってきた若浪の体重は17貫200匁(64.5キロ)。どうしてもあと1貫800匁(6.8キロ)足りない。

 このため、検査の朝、若浪は部屋を出るときに豆腐を3丁、腹に流し込み、さらに、水の詰まった一升瓶を持って検査会場に出かけた。豆腐は水分が多く含まれているため、即席に体重を増やすには非常に有効で、一升瓶の水は、体重計に乗る直前にガブ飲みするためだ。

 こんな死ぬ思いをしたにもかかわらず、最初の検査では、19貫にはまるで届かずに不合格。やっと次の3月の春場所、体重測定係の親方のお目こぼしで合格させてもらったのだ。

 このときの若浪の協会発表の身長は5尺6寸7分(171.8センチ)。体重は19貫700匁(73.9キロ)。しかし、いってみれば〝不正合格〞だったから、見た目はそれよりもずっと小さい。土俵に上がると、その小ささがひと際目立った。

 しかし、観客サイドから見ると、こんな小さな力士が暴れまくる相撲ほど、面白いものはない。幸運なことに、若浪は、小さな体にもかかわらず、誰にも負けない天分をひとつ、授かっていた。どんな重いものでもやすやすと吊り上げられるズバ抜けた吊り腰である。この神に授かった吊り腰で、若浪が自分の倍近くもありそうな大きな力士を目よりも高く吊り上げると、客席は、いつもドッとどよめいた。

 若浪には、この観客の驚きが脳天までしびれるような快感だった。と同時に、

「ようし、この次は、もっと驚かせてやるぞ」

 と翌日の稽古での猛烈な意欲を駆り立てた。

稽古熱心な若浪に、師匠の立浪親方(元横綱羽黒山、右)は酒を1升差し出した

痛かった、〝うぬぼれのしっぺ返し〞

 この自己啓発ほど、力士が強くなる特効薬はない。初土俵を踏んで3年半の間に、若浪が負け越したのは序二段のときのたった1場所だけ。しぶといとか、勝負強い、ということばは、このころの若浪のためにあるようなことばだった。

「当時の立浪部屋には、若羽黒、安念山、北の洋、時津山という立浪四天王が群雄割拠し、十両には君錦、佐久昇という力士がいました。オレは幕下のときから、四天王との申し合いに参加させてもらい、十両の二人にはまず負けたことがなかった。毎場所、早く場所が始まらないか、と待ち遠しくて仕方なかったなあ」

 と語る、若浪の実力を裏付けるこんなエピソードがある。

 十両入りを目前にした昭和35年11月の九州に下る途中の姫路巡業で、十両から5人、幕下から5人を選抜し、5人抜き戦をやったことがある。

 これに、幕下代表の若浪が十両力士を向こうに回して見事優勝。意気揚々と引き揚げようとすると、

「よし、オレも懸賞をつけよう。ホラ、これをやるぞ」

 と思いがけないところから声がかかった。なんと人気絶頂の横綱若乃花(初代)が花道の奥からこの5人抜きを見ていたのだ。

 この若乃花も小柄。小さな若浪の熱闘に、かつての自分を見る思いがしたのに違いない。若乃花の懸賞の中身は5000円だった。

 十両に勝ったうえに、横綱にまでご褒美をもらったのだから、当時19歳の若浪に、有頂天になるな、というほうが無理だった。

「これなら十両はすぐだな。相撲なんて、ちょろいものよ」

 と、若浪は、胸を大きくそっくり返った。しかし、たちまちこのうぬぼれのしっぺ返しがやってきた。

 この35年九州場所、東の幕下4枚目と、十両目前の若浪は、いきなり初日から3連敗し、この大事なときに3勝4敗と、入門して2度目の負け越しを喫してしまったのだ。

「当分、禁酒しよう」

 と、ショックの若浪が三度の飯よりも好きな酒を一時断つことを思いたったのはこのときである。

「その代わり、この次の場所には優勝してやる。そうしなきゃ、いつまでも飲めないもんな」

 もちろん、この優勝宣言は冗談のつもりだった。ところが、西の5枚目に1枚後退した36年の初場所、若浪は初日から快調に突っ走り、本当に7戦全勝で幕下優勝し、十両昇進を決めてしまったのだ。

 オレは夢を見ているんだ、と若浪は思った。そうでなけりゃ、こんなに絵に描いたようにうまくいくはずがない。でも、そっと尻の肉をつねっていると、確かに痛い。

「そうか、わかったぞ。酒をやめる気でやったら、なんでもできるんだ」

 若浪は、夢心地の中で、これでオレは大成のコツをつかんだ、と思った。(続く)

PROFILE
若浪順◎本名・冨山順。昭和16年(1941)3月1日生まれ。茨城県坂東市出身。立浪部屋。178㎝103㎏。昭和32年春場所初土俵、36年春場所新十両、38年夏場所新入幕。43年春場所、平幕優勝。幕内通算52場所、351勝429敗。優勝1回、敢闘賞2回、技能賞2回。最高位は小結。47年春場所限りで引退。年寄大鳴戸から玉垣として、平成18年(2006)2月に停年、翌19年4月16日死去、享年66歳。

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