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2018-06-15

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・北葉山英俊 編 賜盃を呼んだ無心の境地――双葉山の教えあればこそ[その3]

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※昭和38年名古屋場所、大関で悲願の初優勝を果たし、師匠の時津風親方(元横綱双葉山)から賜盃を受け取る北葉山
写真:月刊相撲

【前回のあらすじ】上京後、春場所を控える大阪の時津風部屋宿舎を訪ねた北葉山。同郷で頼みの綱・双ツ龍はつれない態度をとるが、北葉山の固い入門意志を悟ると、ようやく元双葉山の元へと連れて行き、入門を許された。

負けじ魂で大関まで駆け上がる

 男が男に惚れると、予測もつかない強力なエネルギーを発することがある。

 目をこすりたくなるような、というのは、おそらくこういうことをいうのに違いない。北葉山が入門したとき、誰一人として、

「こいつはモノになる」

 と予想した者はいなかった。ところが、初土俵の翌場所、いきなり序二段で全勝優勝し、入門して丸4年で十両に昇進してしまった。そして、それからまた3年後の昭和36年(1961)の夏場所後には、なんと大関にも。

「中学を卒業して3年間、デッチ奉公して道草を食っていただけに、一緒に入ったヤツらに負けるもんか、という気持ちがものすごく強かったですね。その代わり、よく稽古もしましたよ。幕下に上がるまでは、毎日、午前3時に起きて、必ず一番土俵を取ったものだった。たまに他の者に先を越されると、悔しくってね、次の朝はもっと早起きしましたよ。だから、体が小さいのは確かだけど、土俵に上がったら、いっぺんも、自分が小さい、ということを感じたことはなかった。ちゃんとやることさえやっておくと、この世界じゃ、それほど体の大小は関係ないんですよ」

 北葉山がこの強さの〝持論〞をみごとに実証して見せたのは、大関13場所目の昭和38年名古屋場所のことだった。

 この場所、北葉山はスタートから快調。11日目には1差で激しく追いかけてくる30キロ余も大きな横綱大鵬をモロ差し、右からの下手投げで破り、優勝争いのトップに立った。さらに栃ノ海(当時大関)、岩風(小結)も連破して、連勝は「13」に。

 もう初の賜盃は目前。ところが、ここから北葉山は異常なプレッシャーにさいなまれた。このために、14日目に栃光(大関)に初黒星を喫し、後続との差はわずか「1」。千秋楽の相手は、その1差で追いかけてくる佐田乃山(のち横綱佐田の山、当時大関)だった。

昭和37年秋場所13日目、25連勝中だった大鵬を左から右に打っ棄り、見事な二枚腰を見せた北葉山

師匠の追い求めた相撲の真髄を垣間見る

 佐田乃山との対決前夜、北葉山はNHKのアナウンサーを数人引っ張り出し、午前2時まで痛飲した。

「もう毎晩、酒の勢いを借りないと、どうしようもないところまで来ていましたからね。騒ぐだけ騒いで、ドーンと引っくり返るしかなかったんですよ。それには別世界の人が一番だった」

 と、北葉山は当時の苦痛の一夜について話しているが、翌日、自分の生きるか、死ぬかの大一番を放送するアナウンサーをワザと〝道連れ〞にしたところに、勝負師・北葉山のニヒルさがにじみ出ている。

 千秋楽の二人の対決は、期待どおり、2分を超える大熱戦だった。しかし、攻めて、攻めて、攻めまくった北葉山は、土壇場で涙を飲む羽目に。左四つで、再三、再四、吊って腰が伸びきったところに外掛けを浴び、とうとう力尽きてしまったのだ。

 こうして、勝負は決定戦にもつれ込んだ。時の勢いは佐田乃山のものだった。

 しかし、北葉山の心は、逆に本割のときよりも澄んでいた。

「本割で、やれるだけのことはやりましたからね。たまたま負けはしましたけど、心の中は、なんのわだかまりもなく、すっきりしたものでした。いま考えると、ああいうのを、無心、というのかもしれないなあ」

 と北葉山。余計な煩悩や力が抜けたのである。

 決定戦は、電光石火の短時間勝負だった。無我の境地の北葉山は、賜盃が目の前にちらついて平常心を失った佐田乃山を電車道に寄り切ってしまったのだ。

「オレは、なんにもしなかったのに、相手が勝手に下がったんだよ」

 支度部屋に凱旋してきた北葉山は、キツネに鼻をつまれたような顔でこう言ったが、このとき、師匠の時津風親方が死ぬまで追い求めた相撲の真髄を、チラリとかいま見たような気がしたのだった。

「オヤジは、滅多に人をほめない人だったけど、3回、よくやった、とほめられたことがあるんだよ。そのうちの1回がこのとき。人垣をかきわけてやっと宿舎の玄関にたどりつくと、オヤジがオレを待っていてくれてね。そのときに、よくやった、ということばをかけてくれたんだ。あとの2回は、37年秋場所で大鵬さんをいったん左に打っ棄り、改めて右に打っ棄り直したときと、41年夏場所後に大関を30場所務めて引退するとき。オレがここまでやれたのは、みんなオヤジが偉かったから。家出少年が、こうやって、いまもこの大相撲界で生きていられるのは、双葉山という人に巡り合ったからなんだ。そのオヤジから教わったことを若い者に伝えるのがオレの務め。そう思って、オレは毎日やっているんだよ」

 引退した翌年に土俵のお目付け役の審判委員となり、平成4年で26年目。北葉山改め枝川親方は、相撲をこよなく愛した師匠譲りの心で、土俵の熱闘を見続けた。(終。次回からは小結・若浪編です)

PROFILE
北葉山英俊◎本名・山田英俊。昭和10年(1935)5月17日生まれ。北海道室蘭市出身。時津風部屋。173㎝119㎏。昭和29年夏場所初土俵、33年春場所新十両、同年九州場所新入幕。36年夏場所後に大関昇進。38年名古屋場所、悲願の初優勝。幕内通算46場所、396勝273敗21休。優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回。41年夏場所限りで引退。年寄枝川として、平成12年(2000)5月に停年を迎えるまで時津風部屋で指導にあたった。22年7月20日死去、享年75歳。

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