1986年マドリード世界選手権の400m個人メドレーで鮮烈デビューを果たし、200、400m個人メドレーで1988年ソウル五輪、92年バルセロナ五輪での2種目2連覇を果たした、ハンガリーのタマシュ・ダルニュイ。私も出場していた1991年パース世界選手権では、世界で初めて200m個人メドレーで2分を突破したレースをスタンドで目の当たりにして、「なんで平泳ぎがあるのに2分切れるのか?」と、鮮明に当時のショックを覚えています。
対するは、萩野公介、瀬戸大也たちのライバルである米国のチェース・カリシュ。リオ五輪では銀メダル。昨年のブダベスト世界選手権では個人メドレー2種目に勝ち、400mの優勝記録4分5秒90は、萩野の自己ベストより速く、マイケル・フェルプスの大会記録を更新し、世界歴代でもフェルプス、ライアン・ロクテに次ぐ3位の実力を誇っています。先に行なわれたパンパシフィック大会のアメリカの代表選考会では、400mの圧倒的な強さもさることながら、200mもレベルの高い記録で勝っており、東京五輪ではまさに「台風の目」となる選手です。
ここでは400m個人メドレーに絞って、泳法別にダルニュイとカリシュの特徴を観察してみたいと思います。
図には、彼らの各種目のスプリットタイムを示しました。ダルニュイは1988年ソウル五輪の決勝。カリシュは2017年ブダベスト世界選手権決勝のレースで、いずれも彼らの当時の自己ベストであり、金メダルを獲得したときのものです。
●ダルニュイ参考動画
●カリシュ参考動画:Fina TV(2018全米選手権)
昨年の世界選手権決勝でのカリシュのラップは、55秒93、ダルニュイは59秒04でした。ふたりに共通しているのは、最初の50mをあまり飛ばさないこと。ストローク数(50mごと)を見ても、カリシュが18-19。ダルニュイは19-19。ダルニュイの時代は、スタート後とターン後にあまり潜っていないので、実質的にはダルニュイの方が、ゆったりと大きな泳ぎでバタフライをクリアしていたように見えます。ダルニュイは、200mバタフライでも欧州選手権でメダルを獲得しているし、200m背泳ぎ、200m平泳ぎ、200m自由形も強く、どれを取っても穴がない選手と言われていました。バタフライそのものも元来強いのですが、4個メの入りは、かなりペースを抑えていましたね。
カリシュは、バタフライの前半をゆったりと泳ぎ、バタフライのラスト15mのところで、スルスルと上がってギリギリ先頭に立ってターンしていきました。この辺は、「意図的」にビルドアップをしていたように見受けられました。
カリシュの水中映像からは、胸郭の柔らかさが見てとれますが、ダルニュイのエルボーアップ・リカバリーからは、彼の肩関節の柔軟性の高さが垣間見られます。そう言いば、我々が現役後半のころ、「ダルニュイ体操」と言われ、両腕を同時にグルグル回すと、ほぼ両手先が真っすぐに回るのが、やたらと流行ったのを思い出します(笑)。
ふたりのバタフライに共通するのは、カリシュは第2キックを軽く足を下ろす程度にしていて、ダルニュイもそれほど強く脚に頼らず、グライド時間が比較的長いこと。プルとグライドの伸びを中心に、このパートをクリアしていました。
ダルニュイの背泳ぎのラップは1分2秒72でストローク数が50mごとに34−35。あえて言えばカリシュはここが「穴」なのですが、1分3秒65で、28−29。ソウル五輪のころは、バサロキックもそれほど使っていませんし、まだ背泳ぎは手がタッチした後にターン動作に入っていましたから、それでもダルニュイが1分2秒台で回っていたというのは、かなり驚異です。
カリシュは、ストローク数を見ても、かなりここを抑えている様子がうかがえます。テンポもかなりゆったりしているせいか、FINA TVの俯瞰映像を見ると、腕の動きの大きさに伴って、中心軸が割とブレているのが確認できます。キックを抑えているためだと思われますが、恐らくこれから改善してくるとしたら、そのあたりになるのかな? と推測しています。
ダルニュイのこの当時の平泳ぎのラップは1分14秒20で、ストローク数は50mごとに21-21。動画を見ても、この背泳ぎから平泳ぎで一気に後続を突き放す様子から、当時いかにこのラップが速かったかが伺えます。
しかし、カリシュの平泳ぎのラップは1分7秒67で、ストローク数が15-16。このことからも、いかにカリシュの平泳ぎがケタ違いに速くて、ストローク長が長いかが、理解できます。バタフライはカリシュ、背泳ぎはダルニュイがリードで、この後のクロールのタイムは二人ともほぼ変わりませんから、実質的にこの平泳ぎがダルニュイとカリシュの差ということになります。
ダルニュイの平泳ぎは、ハンガリー発祥の「元祖ウェーブ・ストローク」。肘が水面に出るくらい高く上がり、フロントスカルと、プルのフィニッシュ時のかき込みの際のスカリングを活かしつつ、キックの推進力を上体のウェービングとグライドで伸びにつなげて、大きく速く泳ぐフォームでした。カリシュはそれをさらに進化させています。一つはグライドの位置がダルニュイよりやや深めであること。もう一つはプルの「腕の引き」の局面での加速が入り、瞬間速度が高くなったことです。これらが、15-16というストローク数で1分10秒を切るラップを実現化していると言っても、過言ではないと思います。もちろん、水着の進化によって、姿勢の保持や、水着と水による摩擦抵抗の軽減という、現代の利点も響いていると思いますが、プルの腕の引きは、筋力の要素もかなり強く反映されるため、そういった総合的な水泳界の進化が、カリシュの平泳ぎから見てとれます。
逆に、平泳ぎをここまで効率良く泳ぐと、息継ぎの回数が少なくなるため、前半にエネルギーを使い過ぎることができない…というのも、カリシュの現状だと思います。
ダルニュイのクロールは58秒79で、ストローク数が50mごとに36-36。カリシュは58秒65で、ストローク数は36-38。タイムはそれほど変わりませんが、カリシュの方が、ストローク数が多いですね。きっと、平泳ぎの息継ぎがあまりにも少ないから、苦しいのかと(笑)。ダルニュイは、この時代にすでに58秒台で4個メのラストをカバーしていたというのは、本当に驚異的ですよ。彼の練習量が半端ないという噂を聞いていましたが、まさに、「泳ぎこみの賜物」だったわけです。当時ハンガリーは徴兵があったようですが、ダルニュイのようなエリートアスリートは、それが免除になっていたようです。ですから、彼らにとって驚異的な量的トレーニングは「徴兵での訓練」と比べると天国だ…という感覚があったとのこと。これらはあくまでも文献になっている情報ではなく、30年前に私がある関係者から聞いた情報です。しかし、それでも平泳ぎからのターンタイムも合わせて、ラスト100mを58秒(恐らく泳速度は57秒台)で泳いでいたダルニュイは、本当にすごかったんだな…と改めて思います。しかし、そのダルニュイでさえ、クロールの局面は左右呼吸(1ストロークに1回)しているので、400m個人メドレーがいかに鉄人レースなのかが、二人の泳ぎから推して知れますね。
このように彼らのパフォーマンスを細かく見ると、4個メで王者になるための共通項が浮かび上がります。それは、いかに前半の200mまでに、体力を激しく消耗することなく先頭に立ち、平泳ぎでは技術・体力で優位にレースを進め、クロールでは必死に苦しいのを我慢する…というパターンです。まあ選手やコーチたちはわかっているのでしょうけど、それを現実にするのが難しいわけですね。世界一器用でタフなこのふたりから、まだまだ学ぶべきところが多くあるように思えました。
文◎野口智博(日本大学文理学部教授)
●Profile
タマス・ダルニュイ(Tamas Darnyi)●1967年6月3日生まれ、ハンガリー・ブダペスト出身。オリンピックでは1988年ソウル大会、92年バルセロナ大会で200、400m個人メドレーの2種目連覇を達成。また、世界選手権でも1986年マドリード大会、91年パース大会で2種目連覇を達成している。
チェース・カリシュ(Chase Kalisz)●1994年3月7日生まれ、米国・メリーランド州出身。リオ五輪400m個人メドレーでは萩野公介に次ぐ銀メダルを獲得。世界選手権では瀬戸大也が連覇を飾った2013年バルセロナ大会、15年カザン大会とそれぞれ2位、3位となったが、17年ブダペスト大会では200m個人メドレーと合わせて2冠を達成した。
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