close

2018-07-27

8月9日開幕! 競泳・東京パンパック2018 【プレイバック企画】 野口智博氏(1987・89年出場)が振り返るパンパックの思い出

※野口氏が出場したパンパックで強い印象を残したエバンス。東京大会では世界新をたたき出すなど、名実ともに日本でも人気を誇った
写真◎スイミング・マガジン

 8月9日(木)から12日(日)までの4日間、東京辰巳国際水泳場にて開催される第13回パンパシフィック選手権(パンパック)・競泳競技(オープンウォータースイミングは14日に千葉県館山市の北条海岸にて開催)。日本では実に16年ぶりのパンパックとなるだけに期待も高まる中、「スイミング・マガジン」の技術解説でお馴染みの野口智博先生(日本大文理学部教授)に、選手として出場した1987年、89年大会の思い出について、書いていただいた。当時のパンパックの位置付けから、日本の競泳マニア、関係者には抱腹絶倒のエピソードまで、お楽しみください。

●1987年ブリスベン大会
高鳴り覚えた選手コールと
ローレンスコーチ

 パンパックの前に、個人的に思い返すのは、その前身大会であった「デサント国際招待水泳」のことです。ちょうど私が中1のときにあり、それをはるばる島根から夜行に乗って母と観戦に出かけ、東京五輪金メダリストのドン・ショランダー(米国/男子100、400m自由形、400、800mフリーリレーで4冠)や日本代表の方々のサインをもらって、モチベーションを上げて帰郷したことを覚えています。

 そして実際に選手としてその舞台に立つことができたのは、第2回大会(1987年)で、豪州のブリスベンで行なわれたときです。

 私は、直前のザグレブ・ユニバーシアード大会の1500m自由形で日本歴代2位となる自己ベストを出し、乗りに乗っていました。当時400m自由形では4分が壁になっていた時代で、パンパックでは4分0秒93の自己ベストを出したものの壁を破れずに、若干悔いが残る大会でした。ただ、ユニバーではリレーでしかできなかった世界大会の決勝レースを、個人種目で初めて経験でき、英語でコールを受けたときの気持ちの高鳴りは、今でも強く覚えています。

 日本代表は、正直、鈴木大地さん(現・スポーツ庁長官)が一人気を吐いている状態でしたが、鈴木さんがユニバー、パンパックと常に金メダル争いにいる姿を見て、すごく励みになりました。彼のレース前日には、私は宿舎で彼の「背中剃り係」でしたので(笑)、余計に応援にも気持ちが入りました。

1987年大会、鈴木は100m背泳ぎで日本新記録を樹立し2位に。翌88年ソウル五輪金メダル獲得への布石を打った
写真◎スイミング・マガジン

 もう一つ、この大会で印象に残っているのは、私が泳いだ1500m決勝の前に行なわれた女子800m自由形。大会直前の全米選手権でセンセーショナルなデビューを果たした、大本命のジャネット・エバンス(米国)が、なんと地元・豪州のジュリー・マクドナルドに敗れる大波乱のレースを招集所で目の当たりにしたことです。しかもマクドナルドは8分23秒18の世界新記録で優勝を飾ったのです。

 のちに、私はそのジュリーの師匠であるラウリー・ローレンス(1984年ロサンゼルス五輪男子200mバタフライ金のジョン・シーベン、88年ソウル五輪男子200m自由形金のダンカン・アームストロングを育てた)の元へ行き、それこそジュリーとも練習をさせていただくことになるのですが、ラウリーさんが、ジュリーとエバンスが競り合うのに合わせてプールサイドを歩き、ジャージを振って応援し、ラップをエバンスに取られると、頭を抱えてスタンドにアピール。逆にジュリーが取ると、スタンドに両手を広げて「Come on!」の大ゼスチャー!(笑)スタンドも大盛り上がりで、次レースの招集所にいた私でさえ、自分のレースそっちのけで見入ってしまいました。競泳をここまでエンターテイメントにできるラウリーコーチは、実際の指導でも戦略が緻密でかつ情熱的。私の目指すところであります。

エバンス(手前)を抑え、世界新で女子800m自由形を制したマクドナルド
写真◎スイミング・マガジン

 88年ソウル五輪では鈴木さんが100m背泳ぎで金メダルを獲得。今や国際水泳連盟(FINA)役員としてオリンピックの決勝でスタートホイッスルを鳴らす緒方茂生さん、日本マスターズ協会会長の髙橋繁浩先生が、B決勝で日本新を樹立。高橋清美さんが4位入賞。男子400mメドレーリレーが入賞と、後の日本の躍進の土台となる成果が上がりました。

●1989年大会
「どーすることもI can not」と
イエーガー、エバンスの世界新

 1989年東京大会は、そんな状況でありつつ、ソウル五輪の年に引退した人と、新たにデビューする人が入り交じった中で迎えました。そのとき、私は社会人1年目で、選考会の1500mで久しぶりに優勝し、チームキャプテンの重責を与えられました。

筆者の雄姿。1989年東京大会では日本代表キャプテンを務めた
写真◎スイミング・マガジン

 私はキャプテンとしてそれほど統率力もありませんでしたが、セントラルスポーツの社員でもありましたので、鈴木陽二ヘッドコーチと選手たちの間に立って、諸々の調整役をしていました。あとは、鈴木コーチへのツッコミ役(笑)。鈴木先生って、選手の前でちょくちょくボケるので、要所要所で私がツッコミを入れて拾うことで、選手団を和ませる…そんな感じでしたね。

 パンパック前の代表合宿が、本学の日大櫻丘高校(当時50m屋外プール)で行なわれた際に、練習中、突如ゲリラ豪雨に苛まれ、やむを得ず全員練習を中止し、プール玄関で待機となったことがありました。雨がなかなか弱まらず、選手たちは苛立ち、「野口さん、鈴木先生になんとか言って下さいよ!」と文句も出てきたので、プール近くで待機していて鈴木先生に「先生、どうします?」と話したら、鈴木先生は真顔で「そう言われてもなあ。この雨じゃ、どーすることもI can notだよな」と(笑)。意味不明なリアクションを受け、私もそれ以上反論ができず、一言一句そのまま選手達に伝えたとたん、選手たちは笑い転げて、一気に場が和みました。

 それ以来、「どーすることもI can not」は、この期間中の代表選手の合い言葉になりました。

 大会は複数の日本選手がメダルを獲得し、若手も日本新を量産するなど、随所に成果を挙げました。海外勢も、トム・イエーガーが50m自由形で世界新。ジャネット・エバンスがその後20年も破られなかった800m自由形の世界新を叩き出すなど、恐らく東京五輪以来の、海外勢のハイパフォーマンスだったのではないかと思います。現在日本の競泳コーチングの第一人者である、平井伯昌さんも、確かこの大会が代表支援コーチとしてのデビュー戦だったかと記憶しています。そういった意味でも、現代の日本の競泳コーチングにも、さまざまな影響を及ぼした大会となりました。

1989年東京大会の女子800m自由形で8分16秒22の世界新をたたき出したエバンス
写真◎スイミング・マガジン

1989年東京大会、男子50m自由形で22秒12の世界新を出したイエーガー
写真◎スイミング・マガジン

 しかし、真のハイライトは閉会式後でした。

 私たち選手団は、選手団ミーティングの後、私が先頭に立って鈴木先生を胴上げして、そのままみんなで「どーすることもI can not!」と大声で叫んで、先生をプールに落としたのです。そこまでは、まあまあ、ある風景ですが、その後がマズかった!

 当時の小林徳太郎・日本水泳連盟副会長が「これから会長がみんなに話しをするから、全員集合!」と、キャプテンの私に伝えてきたのです。

 すでに向こうの方から、古橋廣之進会長(当時)が歩いて来ている姿が見えました。慌てて、プールサイドに全員を集め、整列させ、選手団の前に古橋先生が立ち、「お疲れさま。みんなよく頑張った」と朗を労って下さったのですが、鈴木先生の姿がありません。

 古橋先生が、「ソウルの後…」とお話しをしている最中に、プールからザバア…という音がして、鈴木先生がびしょ濡れで、メガネも歪んだ状態で上がってきたのです。で、選手団の列の端っこに並んで、古橋先生の話を聞き始めました。

 前述の通り、新旧交代もあってこのときの日本代表は若手が多く、選手全員がチームに溶け込むのが難しい状況ではありましたが、このように鈴木先生のキャラでもって、うまく新旧の調和が取れ、3年後のバルセロナ五輪でもこの大会経験者が活躍してくれました。そういった意味では、意義深い大会であったと言うことはできるでしょう。

 今年のパンパックは、その鈴木先生が久々の代表復帰。ぜひ、選手団の誰かがツッコミ役をやっていただけたらと思います。きっと、そのチームの明るい雰囲気が、東京2020への道を、しっかりと照らしてくれるはずですから。

文◎野口智博(日本大文理学部教授/1987、89年パンパック日本代表)

※アリーナはパンパシフィック選手権2018のゴールドパートナーです。

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事