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2018-07-24

東京五輪開幕まであと2年!初対談「鈴木大地×北島康介」競泳五輪金メダリストが語り合う現役時代~金メダル獲得とその後の苦闘、そしてこれから~

※現在、鈴木氏はスポーツ庁長官、北島氏は東京都水泳協会副会長などの要職を務め、現在の水泳界の発展に寄与している
写真◎小山真司/スイミング・マガジン

 日本のスポーツ史に大きな足跡を刻み、現在も多くの人々の記憶に生き続けるふたりの五輪金メダルスイマー――鈴木大地氏(現・スポーツ庁長官)と北島康介氏(現・東京都水泳協会副会長)の初対談は、「スイミング・マガジン」通算500号(2018年7月号)記念企画として実現したが、7月24日に2020年東京オリンピック・パラリンピック開幕まであと2年となる節目に、本誌で紹介しきれなかった内容を含め、完全版としてご紹介。後編はオリンピックでの金メダル獲得とその後の苦闘、そして今後の活動について、語っていただきました。

文・構成◎牧野 豊

金メダリストへ

――鈴木さんは、1回目の結果を受けて、どのようにソウル五輪に向かおうとしていたのですか。

鈴木 1回目のオリンピックは、日本の競泳チームがどん底のような状態でした。メダルはゼロですし、ほとんどのリレー種目も引き継ぎ違反で失格になっていたくらいです。しかも、ソ連や東ドイツといった当時の東西冷戦という政治情勢から東側の強豪国がいない中での成績で、水泳界全体が変革を余儀なくされた時期でもありました。ただ、大会中、米国の国歌ばかり流れているのを聞いているうちに、“今度、出たら、メダルを獲りたい”と、無謀にも思い始めていました。

――無謀、だったんですか? 

鈴木 当時は、日本人が水泳でメダルを獲ること自体、あり得ないと思われていたので、私が「メダルを目標に」と言うと、「何を言ってるんだ。そんなの無理」という風に捉えられていたと思います。

――北島さんのときは、水泳界の雰囲気が違ったと思います。

北島 最初のシドニー五輪のときは、女子が強くて、田島寧子さん(400m個人メドレー銀)や中村真衣さん(100m背泳ぎ銀)らがメダルを獲って、メダル自体を目標にできる空気がありました。男子のメダリストは出ませんでしたけど、自分や山本貴司さん(男子バタフライ/現・近畿大監督)が世界の上を目指せる布石を打つ結果だったので、2回目のオリンピックは金メダルを目標に向かっていきました。

――これまで何度も聞かれたと思いますが、実際、オリンピックで金メダルを獲った瞬間は、どのような感情が沸き起こってきたのですか。

鈴木 私のときは、16年間金メダルから遠ざかっていたので日本競泳界の悲願でもあり、2回目の出場だった自分に対しての期待も大きくなっていました。ですので、獲った瞬間は、ほっとした気持ちが強かったです。あと、私は視力が弱かったので、レース直後に電光計時板がよく見えなくて。テレビで観ている人や日本代表のチームメイトよりも遅く、優勝したことを知ったのです(笑)。

北島 計時板に近寄っていって、タイムを確認していた映像を何度か目にしたことはあります。

――北島さんは鈴木さんのソウル五輪のときの記憶は?

北島 当時6歳でしたけど、うっすらと覚えています。5歳から本格的に水泳を始めた東京スイミングセンターからもソウル五輪には三浦広司さん(バタフライ)が出場していたので、比較的オリンピックを身近に感じられる環境でした。ですので、自然と、オリンピック選手になりたいと漠然とした夢を持った時期でもあったと思います。

――ほかに今だから言えることは?

鈴木 ほとんど語り尽くしていますから…。ただ、これはあまり言っていないことですが、僕自身は、金メダルを獲る目標も大切でしたが、海外の選手と水泳を通して友達になること自体がすごく楽しかったんですね。ライバルから「バサロキックは、どうやって打っているのか?」と質問されれば、「ちょっと潜って見てて」と実践して見せたりしていました。今考えると、国際交流のために水泳をやっていたのかなと感じます。仮に自分が優勝できていなくても、ライバルを心から祝福したり、逆に自分がソウルで勝ったときは皆が寄ってきて祝福してくれた。金メダルを獲ったことよりも、そうした海外の選手たちと友情を育めたことが自分にとって大きなものだったと思います。

日本中が歓喜に沸いた鈴木氏のソウル五輪優勝。勝負を懸けたバサロの延伸は、今でも語り草だ
写真◎Getty Images

――北島さんの場合は、ブレンダン・ハンセン(米国)という特定のライバルがいました。

北島 そうですね。僕の場合、ハンセンという明確な存在が、自分の背中を押してくれたと思います。「負けたくない」という思いを抱えながら、取り組めたのが良かったと思います。彼自身も僕に対してそういう気持ちがあったと思います。その部分も含めて、アテネで金メダルを獲れたことはうれしかったですね。

――鈴木さんは北島さんの金メダル獲得シーンを現地でご覧になっていたんですよね。

鈴木 解説者として現地にいて、見ていました。しかも2種目でしたから、うれしかったですね。海外の関係者からも祝福されて、何か自分が成し遂げたように感じていました。

北島氏は2004年アテネ五輪平泳ぎ2冠で日本のスポーツ界を代表するアスリートに。100m優勝後に発した「ちょ~、気持ちいい」のインパクトも絶大だった
写真◎日本雑誌協会

北島 ただ、次の2008年も勝ちましたけど、最後の2012年ロンドン五輪(100m平泳ぎ)では彼に負けているんですよね(ハンセンは3位、北島氏は5位)。それが唯一の心残りというか。本音では、ほかの誰に負けてもいいから、ハンセンにだけは負けたくなかった。

 そんな感じだったので、2009年から自分が米国を拠点に競技活動を開始するとき、ライバルの国なので、背を向けられるんじゃないかと思ったこともありました。でも、実際には皆が受け入れてくれました。大地さんの言うように、ハンセンも含めて、そうした海外の選手たちと関係を築けたことも、自分が長く競技生活を送れた一因だと思います。

金メダリストとしての苦悩

――おふたりとも五輪金メダリストになったあと、周囲の見る目ががらりと変わったと思います。

北島 大地さんのときは?

鈴木 ソウル五輪のときは、全競技で金メダルが4個しかなかったこともあり、競泳のメダリスト以上の存在として見られた部分はあります。結構、苦労しました。

北島 自分も帰国したときに、こんなになるんだ、と実感しました。アテネでは平井先生も、僕も、初めての金メダルで、そのとき代表コーチでもあった陽二先生から「日本に帰ってから世界が変わるから気をつけろよ」と言われたことは覚えています。

鈴木 それは、私が金メダルを獲ったあと、失敗しているから言ってくれたのだと。

北島 僕も失敗しましたけどね(笑)。

金メダル獲得後、日本中の誰もが知る存在となった鈴木氏。だが、当時の競泳界の環境含め、競技継続におけるモチベーションを保つことが難しかったという
写真◎スイミング・マガジン

――やはり、金メダル獲得後は、気持ちの面で次の目標に向かうことが難しい。

鈴木 私の場合は、水泳で飯を食べていく時代ではなかったので、大学の教員を目指して大学院に通いながら、競技活動を続けていました。その中で1回金メダルを獲ると、「次も金メダルを」みたいに周囲が皆、言い始めるのがすごく嫌だったんですね。自分の人生を人に決められてしまう、みたいに。それに対して反発というか、水泳から遠ざかって自分の人生を歩みたい気持ちが強くなっていき、練習場に行くこと自体、気が進まない時期が長く続きました。

 でも、テレビなどで水泳を見ると、練習はしたくないけど、泳ぎたい気持ちが沸いてくる。それで米国に留学して、「楽しく泳ぐこと」を学んだのですが、「楽しく」を「ラク」と勘違いしてしまったのです。極め付きは、練習中に当時、中学1年の稲田法子さん(1992年バルセロナ五輪に中2で出場。岩崎恭子さんと同級)に負けてしまったこと。もういいかなと。それがバルセロナ五輪イヤーの冬のことです。

北島 それ、すごい話ですね。稲田さん、いまだに現役ですけど(笑)。

鈴木 それで陽二先生に「やめようと考えているのですが」と相談したんです。引き留められるかなと思っていたら「そうだな」と一言(笑)。それで選考会前に引退を決意しました。

――北島さんは、オリンピック連覇を成し遂げました。

北島 でも、アテネから北京に向かうまではすごく波がありましたからね。国内の選手に負けることも多かったように、目指してきた金メダルを獲ったあとに自分で気持ちを整えて次に向かうのはすごく難しかった。それでも、何とか踏ん張り、フェードアウトせずに2連覇を果たせたのは、自分を支えてくれたみなさん、また日本代表でともに戦った選手たちの存在が大きかったです。どんなに不調なときでも、世界の舞台では負けないと自分に言い聞かせながらできたのがよかったと思います。

2008年北京五輪で北島氏は前人未到のオリンピック平泳ぎ2冠連覇を達成。100mは世界新での優勝、200mは圧勝とパーフェクトウィンだった
写真◎Getty Images

鈴木 同年代で残っていた選手も多かった?

北島 そうですね、比較的多かったです。大地さんの時代と違って、大学を卒業したらすぐに現役引退、という考え方は薄らいでいました。2004年が大学4年で、その次も目指すことは自然と考えていました。

鈴木 長く競技生活を続ける上で、同世代の選手がいることは、すごく大きなことですよね。

北島 その点、僕は恵まれていましたし、今の選手はもっと恵まれていると思います。東京五輪の開催が決定したことの影響も大きいと思いますが、練習環境も良くなり、企業のサポートも手厚くなっていると思います。

鈴木 その意味では本当に環境の変化はすごいものがあります。われわれのころは、大学を卒業して現役を続けていたのはほんの数人。なにか寂しくなるんですよね。遠征や合宿に行っても、女子は中学生が多くて、何を話せばいいの? くらいに歳が離れていて、自分がすごくおじさんになった気分でした。

北島 その気持ちは、すごくわかります。周りがどんどん若くなっていくと、身にしみて感じました。

競泳界、スポーツ界のために

――最後に、今は違う立場でスポーツ界に携わっていますが、今後、日本のスポーツ界、競泳界にどのように関わっていくか教えてください。

鈴木 今の自分があるのは、水泳があったからこそと感じています。現在のスポーツ庁長官になる前にも、日本水泳連盟の要職を務めさせていただき、組織の運営を学ばせていただきました。連盟の関係者や財界にも水泳界出身の方もいらっしゃって、そういう方々から学ぶ部分も多かったです。水泳はスイミングクラブという民間団体と学校教育がバランス良く融合された世界だと思いますので、その経験を今後も仕事に役立てていければと思います。

北島 僕も水泳畑で育ってきた人間なので、引退して形が変わっても水泳界に貢献していきたい思いは強いです。今の競泳界も強い選手が多く、2020年以降も活躍していける人材がそろっています。そういう中で、新しい形の競技会を運営したり、水泳は、人生を通して取り組める競技なので、もっともっと普及していけるような活動をしていきたいと思います。

対談は、バックナンバーを見ながら、互いの現役時代の話に盛り上がりを見せた
写真◎小山真司/スイミング・マガジン

●Profile

すずき・だいち◎1967年3月10日生まれ、千葉県習志野市出身。市立船橋高―順天堂大―順天堂大大学院。専門種目は背泳ぎ。7歳のときに水泳を始め、中学時代からセントラルスポーツクラブへ。全国トップクラスの選手として活躍し、高校3年時に1984年ロサンゼルス五輪に出場する(100m11位、200m16位)。1986年ソウル・アジア大会では100m、翌87年のザグレブ・ユニバーシアード大会では100、200mで優勝を果たし、世界的なスイマーへと成長を遂げる。迎えた88年ソウル五輪100mでは日本人選手として16年ぶりに競泳のオリンピック金メダルを獲得し、一躍国民的ヒーローとなる。92年に引退。その後、1994年からは米国のコロラド大ボールダー校の客員研究員、98年からは日本オリンピック委員会の在外研修として、ハーバード大水泳部のゲストコーチを務めるなど、米国で見識を広め、2000年からは母校・順天堂大の水泳部監督を務め、06年から同大准教授に。その後、多くの要職を務め、2013年には教授となると同時に、日本水泳連盟会長にも就任。2015年10月からは新設されたスポーツ庁の初代長官となり、現在2期目となる。また、2016年10月にはアジア水連副会長、2017年7月には国際水連理事に選任された。

きたじま・こうすけ◎1982年9月22日生まれ、東京都荒川区出身。本郷高―日本体育大―日本コカ・コーラ。専門種目は平泳ぎ。5歳から東京スイミングセンターで水泳を始め、ジュニア時代から全国大会で活躍。高校3年時に2000年シドニー五輪でオリンピック初出場(100m4位)。2002年釜山アジア大会200mで自身初の世界新記録を樹立すると、翌03年バルセロナ世界選手権では100、200mともに世界新記録で優勝を果たす。そして2004年アテネ五輪では平泳ぎ2種目において金メダリストに。続く2008年北京五輪では平泳ぎ2冠(100mは世界新)五輪連覇を達成した。1年の休養を経て09年6月から米国を拠点に競技を再開し、その後も国際大会で活躍。2012年ロンドン五輪に出場し、個人種目では100m5位、200m4位に終わったが、400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した。2016年4月の日本選手権を最後に現役引退。4回のオリンピックでの通算メダル獲得数は金4、銀1、銅2の7個。現在、2009年に設立した(株)IMPRINT代表取締役社長、東京都水泳協会副会長を務めるなど、多忙な日々を送っている。

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