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2017-10-13

8年ぶりの世界選手権表彰台へ 三十路を迎えた古賀淳也(第一三共) 戦い続ける理由

今夏、8年ぶりに世界選手権の表彰台(50m背泳ぎ2位)に上った古賀。紆余曲折の経験を経ながら、トップ戦線に浮上してきた

 9月上旬、東京ミッドタウン内にある瀟洒なホテル。世界で戦うアスリートを支援する財団の表彰式には、主に五輪競技のトップ選手、ジュニアの有望株が一堂に会していた。毎年恒例の表彰式のため、その顔ぶれはその時々の日本スポーツ界を象徴しており、会場に続く通路に展示された過去の表彰対象者を見返していくと、年ごとの出来事を思い返すことができる。

 表彰終了後、別室では表彰対象となったさまざまな競技の選手やコーチたちが昼食を取りながら親交を温めている。報道陣は入室禁止だが、半開きの入り口からは、室内の様子が少しだけうかがえる。

 特に意識していたわけではないが、部屋の中から聞きなれた声が聞こえてきた。
「日本だと、五輪種目じゃないからといって、50mを軽く見ているけど……」。目をやると、今では後進の指導に当たっている藤井拓郎の姿があった。競技者としてのみならず、競泳マニアとして知られてきた藤井らしい言葉だな、と思いつつ、その会話の相手を見ると、やはりあの男だった。スイマガ編集部には5年ぶりの復帰となったこともあり、ふと懐かしさも覚え、声を掛けてみると、通路まで出てきてくれた。

「お久しぶりです」
 こちらに向かって一礼、そして笑顔。古賀淳也は、30歳になった今でも、その雰囲気は変わらぬものだった。
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 2007年から12年までスイマガで仕事していた者とって、古賀は忘れられない選手の一人だ。

 8年前、灼熱のローマ(イタリア)で開催された世界選手権において、古賀は100m背泳ぎで優勝を果たし、日本人選手としては北島康介に次いで史上2人目の世界選手権王者となった。

世界選手権では史上2人目の日本人金メダリストとなった古賀。瞬発力を生かした抜群のスタート技術で、その名を世界に知らしめた

 その年、2009年は、二つの意味で新しい時代への過渡期だった、と思う。

 まずは、日本の競泳界。北島康介が前年の北京五輪で2冠連覇を成し遂げた後、休養期間に当てていたシーズンで(この時点では米国で練習を再開してはいたが)、12年ロンドン五輪に向かう日本代表の中心は、ベテランの松田丈志、若手では入江陵介、古賀、平泳ぎの立石諒たちを軸として新たなスタートを切っていた。

 そしてもう一つ、前年から続いていた高速水着の騒動がピークとなり、一種のカオス状態を迎えていた。2010年以降は情勢を収束するためのルールが設けられることは決定していたが、選手たちは自身の泳ぎに加え、どの水着を身に付けているのかについて、辟易するほど質問を受け続けていた。

 そんな喧噪のなか、選手たちは戦わなければならなかったわけだが、古賀は冷静に戦いに挑んでいた。持ち前の瞬発力を生かしたスタートからアンダーウォーターの技術を駆使し、決勝でも冷静なレース運びを見せ、世界の頂点に立った。ゴールタッチ後、水面をたたくわけでもなく、控えめに、静かにガッツポーズをして喜びを表現した姿は今でも覚えている。最終日には50m背泳ぎで銀メダルを獲得し、その存在を世界に知らしめた。

2009年、ローマ世界選手権の100m背泳ぎで優勝。控えめに、小さなガッツポーズで喜びを表現した

 古賀は、礼儀を重んじる姿勢、さわやかなイメージとともに、ドライランドで空手の型を取り入れて注目を集めたように、新しいことを次々と試す選手でもあった。一方で、こちらが「あれ?」と思うくらい、あっさり割り切る部分もあり、そうしたさまざまな要素が同居するキャラクターが古賀の魅力でもあったと思う。

 当然、ローマの翌年以降にかかる期待は大きなものになった。しかし、国際大会の代表に名を連ねたものの、古賀は思ったような競技成績を100m背泳ぎで残すことはできず。最大の目標にしていたロンドン五輪代表には、その名を連ねることはできなかった。

 2012年夏にスイマガを離れたあとも、ニュースや関係者から聞く話で古賀の動向を追ってはいたが、何より驚いたのは、昨年のリオ五輪代表選考会で古賀がオリンピアンになったニュースを耳にしたときだ。なにせ、100m背泳ぎではなく、100m自由形で4位に入り、フリーリレーメンバーとして選ばれたというのだから。2013年から15年まで、出場した主要国際大会は14年のパンパシフィック選手権とアジア大会のみで、2度の世界選手権には不出場だったことを考えれば、二重の驚きだった。
そしてこの夏、8年ぶりに世界選手権のメダリストになったという。
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 財団の表彰式で肩を並べたアスリートたちは皆、東京五輪、来年の平昌五輪を目指している。その中でも最年長の古賀に「正直、ローマで世界王者になったときには、この年齢まで競技を続けているとは思わなかったでしょう」と問うと、「全然思っていませんでした(笑)。本来ならロンドン五輪に出て、その後、1、2年やって引退かなと思っていたくらいですから」と屈託なく笑った。

 5年という月日は長くて短くもあり、短くて長くもある。古賀にとって、どんな5年間だったのだろうか。
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――期待されながらも、2012年のロンドン五輪には出場できませんでした。その後、米国に拠点を移しましたが、その理由は?

古賀「違う環境で新しいスタートを切るためでした。米国に行くことは2012年の五輪選考会が終わった翌日には決めていて、あとはどのチームに行こうかと考えていました。自分のリクエストを数チームに送って、一番返信が早かったのがミシガン大のチーム(クラブ・ウォルバリン)でした。それで夏に様子を見に行って、本格的にはその冬から拠点を移しました。

 外国籍の選手に対してもオープンで、雰囲気も良かったですし、自分にとって良かったのは、当時のチームにはそんなにトップ選手がいなかったことです。
 

 基本的には4年後を目指しての決断で、そのなかで1年ごとのテーマを決めて、1年目は身体づくりで身体を大きくし、2年目(アジア大会の年)はテクニックを中心に取り組み、まずは50mで結果を出そうと。そして3年目は試合慣れするため、背泳ぎではなく、自由形も含めて、各大会、3~4日あるなかでも隙間がないように両種目でエントリーを組んだりしていました」

――自由形に取り組んだ理由は。

古賀「コーチからの勧めでした。『自由形は基本の泳ぎだし、背泳ぎに絶対生きるから』と。それまでは、背泳ぎがダメなら、背泳ぎの練習しなければというイメージでしたが、自由形と並立してやると決めたら、言われたことを受け入れ、まずはこなせるように取り組んでいました。

 プラス面は自然と、練習量が増えたことです。背泳ぎが中心であることに変わりはありませんでしたが、基本は自由形と背泳ぎ、両方を均等に、全力を出し切る姿勢で取り組んでいました」

――自身の水泳観も変わったのでは。

古賀「全然、変わりましたね。僕はそれまで、一瞬、1種目の集中力に懸けて勝負してきたのですが、そもそものベースにあるもの、自分のなかに幅広い力を持っていないと、一瞬の集中力を本当の意味で発揮できないことを感じました。具体的にいえば、50m、100m背泳ぎだけでなく、50m、100m自由形でもしっかり泳ぐことができれば、より背泳ぎに集中できるという意味です。

 向こうでは、100mバタフライでレースに出て、小さな大会ですけど、短水路ではメダルを獲ったこともありましたし、練習では例えばメインで3セットあれば、1セット目は自由形やバタフライで取り組み、2、3セット目は背泳ぎでいこうといった感じで、追いこむのにも、バリエーションが増え、より自らきつい練習に向かっていけるようになりました」

――それにしても、2016年リオ五輪選考会は劇的でした。勝負の100m背泳ぎで代表権をつかめずに(53秒57で派遣標準記録に0秒08及ばず、順位も3位)、フリーリレーの4番手で五輪代表になるなんて。

古賀「僕自身、一つのことをきっかけに流れに乗れる選手だと思っています。正直、勝負種目の100m背泳ぎで落ちたときには、“もう終わった”と気持ちがポキッと折れてしまいました。それで、50、100m自由形に向かうにはどういう気持ちだったのかというと、最初は50mの自由形に懸けてみよう、派遣標準記録を切れるかはわからないけど全力でトライしようと思っていのたです。コーチは『100m自由形のほうが練習を積めていたし、調子も良い。リレーもあるので、チャンスは大きい』と言われましたが、自分としては、1フリは気が進みませんでした」

――その理由は。

古賀「100m背泳ぎでは最後に失速して負けた。そんな状態なので、100mで勝負できるわけがないと思っていたのです。ただ、実際、予選で泳いでみたら、後半、ペースを上げるときに自然に上がったので、“あれ、調子がいいのかな”と。予選は12位でしたけど、決勝に残ったら、もしかしたらと思い、そこから決勝に残る準決勝のペース配分をして、臨んでみたら、準決勝は7位通過。そのときには、行けると、気持ちも一気に上がってきました」

――選考会の100m自由形決勝は、上位4名の合計タイムでリレーの派遣標準を突破しての即オリンピック行き決定でした。

古賀「すぐには切ったことはわかりませんでしたが、オリンピアンになれたことはうれしかったですね。ダメだと思っていたところでの大逆転でしたから。とにかくこれまでお世話になったコーチの方々に対して、感謝の気持ちでいっぱいでした。よく「周囲の支えで」というコメントがありますが、このときは心の底から本当に実感できる経験でした。

 特に米国でお世話になっていたサミュエル(ウェンスマン)コーチはミシガンからわざわざ日本に来ていただき、100m背泳ぎが終わった直後も「ここであきらめるんじゃなくて、まだチャンスはあるんだから、頑張ろう」と声を掛けていただきました。その言葉は本当に大きかったです。同時に、選手寿命が延びたな、と(笑)。

 自由形という基本の種目でベースアップができ、100mで結果が出たことで、100mもまだまだ泳げるんだと感じましたし、フリーはフリー、バックはバックというのではなく、その2つもつながっている感覚です」

――この夏は8年ぶりに世界選手権で50m背泳ぎの銀メダルを手にし、古賀選手の50m種目へのこだわりを感じましたが、特種目(自由形以外)の50mは残念ながら東京五輪の種目とはなりませんでした。その状況下で東京五輪を目標にすることと、50m種目へのこだわりとのバランスはどのようなものでしょうか。

古賀「50m背泳ぎについては、世界で、人類史上もっとも速く(背泳ぎで)泳げることを証明するための種目です。100mはもちろん、オリンピックで戦う場としてとらえています。その上で、そこで戦うための武器となるのは、やはり50mの泳ぎをいかに100mにつなげ、トータルで泳げるようにできるか。その点を前提にトレーニングしているところです。
 今回の世界選手権は大会に向かうにあたっては肩を痛めて(100mのための)練習を控えていた部分もありましたが、混合メドレーリレーでは53秒88まで出た。ですので、50mでのタイムでここまで出ていれば、100mでもここまで出せるという感覚はつかめているので、50mを上げていくことで、まだまだ100mトータルの泳ぎも追求していけると思っています」

30歳になっても、気力、体力ともに変わらず充実しているという。50mでのスピードを追求しながら100mでの結果にもこだわっていく

――今後、3年間、どのような青写真を描いていますか。

古賀「オリンピックを前提に考えるなら100m背泳ぎを中心に取り組んでいきますが、だからといって100%そこにフォーカスするわけではありません。100m自由形でも48秒中盤~前半が出せるよう目指していきたい。そのためには50mのベースアップをすることが必要だという考え方です。ウェイトトレーニングもしっかり行ない、筋持久の練習もメイン練習以外でもやっていくつもりです」

――30歳になっても、気力は変わらない。

古賀「気力も、体力も、30歳になっても以前と全然変わっていません。周りの選手を見ても、気力が落ちると体力も落ちていってしまうことが多いと思うので、自分はまずは気力、それを(50mへの取り組みに置き換えられると思いますが)、維持することで、やっていきたいと思います。

 アンソニー・アービン(米国/リオ五輪で16年ぶりに男子50自由形で五輪金メダル/36歳)、ニコラス・サントス(ブラジル/ブダペスト世界選手権男子50mバタフライ2位/37歳)を見ても、まだまだ30代後半で活躍している選手はいます。彼らは年齢に関係なく、もっと速くなれる、もっと速くなりたいという気持ちがあるから、現在まで泳ぎ続けていると思います。

 今は、東京五輪はもちろん、その翌年の福岡世界選手権もありますし、さらに来年のアジア大会で50m背泳ぎで4連覇できたら、その次の2022年には5連覇を目指そうかと。さらに2024年のオリンピックで特種目の50mが正式種目となったら、そこまで目指そうと。そういう気持ちでいます。幸いこれまでも大きなケガなく、しっかり練習も積めていますし、日々成長して、目標に向かっていければと思います」


構成・文◎牧野 豊

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