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2019-08-06

[甲子園・記者コラム] 「がばい旋風」から12年。佐賀北・久保貴大監督の思い

大会初日、8月6日第2試合では佐賀北(佐賀)が5年ぶりに甲子園の舞台に立ったが、神村学園(鹿児島)に2対7で敗れた。

※上写真=佐賀北・久保監督は2007年夏、右腕エースとして甲子園全国制覇を経験。指揮官として初めて全国舞台に戻ってきたが、1回戦突破を果たすことはできなかった
写真◎石井愛子

指揮官として感じる責任感

 自身12年ぶりの甲子園は、格別だった。しかし、個人的感情に浸る暇もない。勝負をしにきた「責任感」は、選手以上の重みがある。

 2007年夏、佐賀北の右腕エースとして全国制覇を経験した久保貴大監督(30歳)が、生徒を率いる立場として大舞台へ戻ってきた。

「懐かしいというよりも、新鮮な感じ」

 高校卒業後、筑波大へ進学し、社会人でもプレー。教諭として母校に戻り、百崎敏克前監督(現・副部長)の下で副部長、部長として指導者としての基礎を学んだ。17年秋から恩師を継いで監督に就任。2度目の夏で、佐賀北としては5年ぶりの甲子園出場へと導いた。

 佐賀北の野球とは何か――。
 久保監督は「守備です」と即答した。その根拠は?

「バッテリー中心に守る。取れるアウトを取る。ピッチャーは打たせていく。それで僅差で終盤を迎えるのが、理想のゲームプラン」

 同じ「KITAKO」のユニフォームを着ても、プレーする側と指揮する立場では、感情は大きく異なるという。

「監督は勝ち負けもついてくるので、選手のときよりも不安が大きい。選手時代? マウンドに上がるのが楽しみでしたので。プレッシャーとかはありませんでした」

 頭ごなしに指示するのではなく、選手に考えさせるタイプの指揮官である。「いつもどおりやりたい。送るべきところは(バントで)送って、打つべきバッターが打つ。特別、何かをやろうというのもない」。だからこそ、大舞台・甲子園で緊張するのも想定内だという。

「すべてを受け入れて、その場で対応していく。声、全力疾走。自分たちの流れでやれるように努める。(点差が)開かないように、食らいついていく」

自身の思い出よりも選手たちの思い

 九州対決となった神村学園(鹿児島)との1回戦。6回までは久保監督がほぼ思い描いた形となった。硬さが見られた初回、2つの失策が絡んで3失点。2回は長打攻勢に遭って序盤2イニングで0対5と追う展開になった。

 しかし、ビハインドこそ、佐賀北の「流れ」だ。先発の左腕・川崎大輝(3年)は3回以降立ち直り、打線は5、6回に1点ずつをかえす。6回裏には二塁手・久保公佑(2年)がファウルゾーンの打球をダイビング好捕。スタンドも、にかわに騒がしくなってきた。

 何せ、2007年夏の記憶が擦り込まれているからだ。広陵(広島)との決勝、0対4の8回裏に押し出し四球で1点をかえした後、副島浩史(現・唐津工監督)が逆転満塁本塁打を放った(5対4)。久保監督が語る「守備」とは、後半勝負を意味する佐賀北の生命線。「がばい旋風」の根底には、粘りがあるのだ。

 中盤以降は完全に、佐賀北ペースで試合は進む。だが……。2対5で迎えた7回裏一死一塁からの右前打を、右翼手が痛恨の後逸。一走に続き、打者走者も生還してしまい、2対7。「生命線」の守りを崩された。エラーによる失点は戻ってこない、と言われるが、あまりに手痛いミスとなってしまった。

 3点差のまま終盤を迎えたかった……。佐賀北に反撃する力は残されておらず、そのまま2対7で初戦敗退を喫した。久保監督は決して、選手のミスを責めようとしなかった。

「子どもたちには、感謝している。ここまで来させてもらったので。県大会から苦しい戦いが続いたが、あきらめずに戦ってくれた。一緒に戦えたことをありがたく思う」

 周囲は12年前と、現在との比較を聞きたがる。しかし、久保監督はその手に乗らない。自身の監督としての思いよりも、生徒ファースト。常に部員に寄り添う指導は、恩師・百崎副部長から継承されたスタイルだ。

 佐賀北は頂点に立った07年夏以降、12年夏、14年夏、そして今夏と甲子園3連敗。もちろん、このままでは終わらない。久保監督の挑戦は始まったばかりである。

文◎岡本朋祐(週刊ベースボール編集部アマチュア野球班)

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