close

2020-10-06

【私の“奇跡の一枚” 連載87】あの大英雄双葉山と会える場所・両国橋

球体にかかる橋のように渡された四角く長い窓は夜間照明。地球に股をかけ、日本から世界をも照らそうという心意気にも双葉山の笑顔はぴったり!

私は親の代からこの両国に住み、隅田の川風を浴び、相撲太鼓を聞きながら育った大の相撲ファンである。そのため江戸下町の伝統、地元愛も誰よりも深いと自負している。

長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。

※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

両国繁栄の象徴・両国橋

 さて、大川に架かる美麗な橋が大勢の人であふれる浮世絵が、『繁栄の図』としていくつも制作されている江戸の下町・両国。その昔、武蔵の国(西・東京方面)と下総の国(東・千葉方面)の両国を結ぶべく隅田川に完成した両国橋は、現在の橋よりもう少し下流(南側)に、相撲場のあった回向院境内にまっすぐ突き当たる感じで架けられていたという。木造ながら巨大な橋の長さはそのまま地図に刻まれ、相撲甚句にも「〽七十六間(約138メートル)架け渡し」とわざわざ唄われたほど当時としては巨大で誇らしいもので、交通の要所としてはもちろん、下町文化の発展に大きく寄与した。

 前置きが長くなったが、その後様々な架け替えの変遷を経て出来上がった現在の両国橋は、もちろん鉄橋で、橋長164.5メートル、幅員24メートル、国道14号(靖国通り、京葉道路)を通しており、昭和7(1932)年の完成。

 以来、4つの親柱に直径1.5メートルの球体のモニュメントを備えた両国橋は、丸屋根の旧国技館とともに江戸勧進相撲以来の“相撲の町”両国に欠かせぬ風景となった。浮世絵でもそうだったが、両国橋と力士が絡むと何とも絵になるのである。

絶頂の双葉山にあやかる

 大相撲の理想である『品格力量抜群』をそのまま絵に描いたような大横綱で、戦前の日本人の憧れを一身に集めた双葉山も、もちろん両国の住人だった。この不世出の横綱のことを話すとき、一般ファンばかりでなく、その対戦相手の関取衆まで賛嘆のため息状態になっていたとは、私の父の思い出話であった。

 昔から憧れ、尊敬する歴史的ヒーローと自分を親しく重ねられる場所を多数持つ地元の人間は幸せである。そんな中でも私が好きで自分のルーティーンにしているのが、地球儀のような、打ち上げ花火の大玉のような、旧国技館の丸屋根のようなこのモニュメントに触れに行くことである。「まるで墨田区の氏神様(牛島神社)の“撫で牛”みたいね」と笑う。しかし両国に生きてきた私の頭からは昭和13年当時の相撲雑誌『野球界』の撮影という、69連勝真っ只中の青年力士のリラックスした、それでいて底知れない力を感じさせる、粋筋からご帰還!?時の写真の魅力が一時も離れない。ここへ来るといきなりタイムスリップして、双葉山から直接勇気がもらえる、そんな気がしてならないのである。

 ちなみに、近年の両国観光者には、浜町や柳橋(隅田川西岸)側から球体を近景にスカイツリーを絡めて写すショットが人気と聞くが、私はやっぱり、橋名板がひらがなで書されていて、双葉山が微笑んでいる両国側(同東岸)の左にあるこの場所が大好きである。なおもう一つの漢字板は両国側では右手に。浅草橋寄りでは右側にある(橋名板は橋の入り口=起点=の右が漢字、左の出口=終点がひらがなというのが原則のようだ)。

語り部=二葉昭義(仮名。自称・両国水先案内人)

月刊『相撲』平成31年3月号掲載 
タグ:

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事