私は、栃若から柏鵬時代にかけて、番付の書き手として皆さんに親しんでいただいた行司、式守勘太夫(のち年寄鏡山)の長男・正規(まさき)の妻でございます。このほど家を建て直すにあたりまして、義父が家に几帳面に残し大事にしていた番付の元書き(ケント紙に書いた版下原稿)ほかを相撲博物館に納めさせていただくことにしました。

※写真上=行司・年寄時代を通じ15年間にわたって格調高い相撲字で番付を書き続けた岡村熊太郎氏。その書風は大相撲文化の正統を受け継ぐだけでなく、芸術的にも高い評価を受けていた
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

気品を感じた執筆姿

 相撲博物館の方によれば、特に志ある若手行司さんたちが大きな興味を持って公開を心待ちにしてくださっているようで、私どもとしても大いに喜んでいるところでございます。

 修業時代に独学に近い形で研鑽を続けた義父の書風は、最近で言うレタリングではなく、書を書くという意識に徹し、それこそ筆をきちんと立てて書く書道の延長上にあったようです。頑固に自ら墨を磨り、番付を書くのもきちんと右の行からと精神を重んじたこだわりがあったと聞きます。

 今回お納めした義父の書につきましては、“岡村熊太郎ファン”と自任するベテラン雑誌編集者の方には、「『品格・力量抜群』という言葉は親方の相撲字にこそふさわしいかも」と言っていただきました。

 そう言えば、義父の相撲字作品につきましては、書家の榊莫山先生が「清冽」と表現してくださったのを、私も印象的に覚えております。

 私は義父が協会の事務職となってから嫁いで来たものですから、この写真のように実際に番付を書くところは見ておりませんが、頼まれて筆を執って静かで凛とした姿には、ほんとうに品と風格があったように思います。

 青森の田舎には、十数人の兄弟がいて、幼いころの苦労はほんとうに大変だったようです。そのぶん、心の底から優しく穏やかで、私は怒った顔を一度も見たことがありません。義理固く身内を大事にし、孫たちもそれはそれは可愛がってくれました。

 一筋に立派な仕事をやり抜いた偉大な人でも、日常的には平凡な好々爺そのもの。そんな人を義父とした幸せを、この写真を見ながら、いま改めてしみじみと感じております。

【略歴】
6代目・鏡山勘太夫=5代目・式守勘太夫
明治34(1901)年9月27日生まれ。青森県八戸市出身。45年8月10歳のとき伊勢ノ海部屋(元小結八國山)に入門、行司となる。昭和5(1930)年先代鏡山(元幕下金木山)の養子となり、本名を坂下姓より岡村熊太郎。式守與之吉を経て13年1月十両格のとき式守勘太夫。15年5月幕内格。20年1月師匠没に伴い鏡山を襲名。行司・年寄の二枚鑑札。31年5月三役格。端正な容貌、気品のある掛け声、厳正な軍配裁きは行司の範とされた。33年行司の年寄襲名制度が廃止されたため46年間の行司生活に別れを告げ年寄専務となった。裁きと同時にその書く相撲字は角界随一の評を受けており、26年1月より41年9月まで15年間80場所番付を書き続けた。42年9月限り満65歳の停年で引退したが、その温厚篤実な人柄から嘱託として協会事務所に54年9月まで勤務。相撲界の生き字引として親しまれ敬愛された。59年5月18日逝去、享年82。

語り部=岡村ひで子【6代目鏡山勘太夫(本名・岡村熊太郎)長男妻】

月刊『相撲』平成26年6月号掲載

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