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2021-01-20

【プロレス】葛藤が透ける空席を直視した棚橋弘至と、15年前のとある光景

棚橋は後楽園では久々となるエアギターを披露した

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新日本プロレス1・18後楽園ホールは、コロナ禍の現実をあらためて突きつけるような大会となった。

 前日に同じ後楽園ホールで新シリーズが開幕し、この日は同会場3連戦の2日目。緊急事態宣言が発出され、各プロレス団体はリング内外で感染対策をおこなっているものの、午後8時以降の外出自粛が強く求められている等の時勢を見れば、ファンの会場への足取りが重くなるのは仕方のないこと。

 17日の開幕戦はソーシャルディスタンス仕様ながらチケット完売で、694人(団体発表)の動員。しかし翌18日の観衆は396人(同)と、新日本の後楽園大会では異例とも言える厳しい客入りとなった。前売りチケットを購入していながらも、観戦に二の足を踏んだファンも相当数いたと思われる。「行きたくても行けない」というコロナ禍における葛藤が、空席からは透けて見えた。

 そんな寂しい客席の光景に、リング上からあえて言及したのが棚橋弘至だった。棚橋はメインイベントに登場し、1・30名古屋でのNEVER無差別級王座戦を控えて、王者・鷹木信悟と激しい攻防を展開。ハイフライフロー(ダイビング・ボディープレス)でBUSHIを仕留めると、試合後にマイクを手にした。

「悔しいです。でも今日、この後楽園ホールを、オレは絶対に覚えておきます。今日はどうしてもハイフライフローで決めたい理由があって。それは、ハイフライフローを飛び続けてきたボクの記憶、それは新日本プロレスを盛り上げてきた記憶、そのものだから」

 2000年代の初頭、新日本は観客動員が低迷し、いわゆる“暗黒期”と呼ばれる時代があった。選手が離脱し、ファン不在の混沌、混乱も多くあったなかで、団体としての求心力を大きく失っていた。

 そのなかで棚橋は、中邑真輔(現WWE)というライバルにも恵まれ、新日本を立て直すべくリング内外で奮闘。リング上ではチャンピオンとしてけん引し、リングから下りれば積極的にファンサービスに務め、心身を新日本プロレスに捧げてきた。新日本の“V字回復”の軌跡は、本人が口にした通りハイフライフローで飛び続けてきた記憶とリンクする。

 後楽園のリング上から涙ながらにマイクで語り掛ける棚橋の姿を見て、いまから約15年前の、とある光景を思い出した。

 棚橋は06年7月にIWGPヘビー級王座を初戴冠。同年の『G1 CLIMAX』を制した天山広吉との初防衛戦が決まり、9・8千葉公園体育館で調印式が実施された。当時の試合結果を見ると、同大会の観衆は930人となっている。だが、現地で目視した限り実際はもっと少なかったし、地元千葉出身の永田裕志が「ちょっと(客入りが)寂しいよな」と口にしたことを覚えている。

 調印式の席上で棚橋も、閑散とした客席を見渡して「オレはチャンピオンとして、1年以内にこの会場を超満員にする!」とアピールした。その後は新日本がそもそも千葉公園体育館での興行をまったく開催しなくなったため、同会場を満員にするという目標は達成できなかったものの、新日本マットを盛り上げるという“大義”は見事に果たした。

 当時の状況と、目に見えないウイルスの脅威が蔓延するいまの状況を比べることは、もちろんできない。緊急事態宣言下のコロナ禍ゆえにやむなし、と見過ごすこともできたはずだが、それでも棚橋は空席が目立つ会場を直視し、あのときと同じように前向きなメッセージを発した。

 IWGPヘビー級王座の初戴冠時から約15年が経ち、肉体は満身創痍で、涙腺もかなり弱くなった。それでも献身的で貪欲な姿勢は失われることなく、変わらずハイフライフローで飛び続けている棚橋弘至が新日本プロレスにいることは、コロナ禍においても心強い拠り所となっている。
<週刊プロレス・市川 亨>

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