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2021-09-05

【ボクシングコラム】「ヒントは日常に転がっているんです」──ユーリ阿久井政悟が語った“流儀”<インタビュー編>

強引に攻めているように見えて、その実、違う阿久井のラッシュ

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 あの日、あのとき、あの瞬間、勝者は何を考え、何を仕掛けていたのか。7月21日、東京・後楽園ホールで行われた日本フライ級タイトルマッチで、2度目の防衛を果たしたユーリ阿久井政悟(26歳、試合時25歳=倉敷守安)。試合からおよそ3週間後、日常を取り戻した王者の言葉は、想像を遥かに超えるものだった──。掲載済みの<私的考察編>と併せて読むと、ボクシングの奥深さがわかるはず。さらに、敗れたものの最後まで立派に戦い続けた桑原拓(26歳=大橋)のその後も追記。戦い続ける者たちの姿は、いつ見ても眩しい。 

※個人メディア初出(8月16日)記事に、大幅に加筆・修正を加えたものです

文_本間 暁 写真_菊田義久


スピード勝負はしない

 東京五輪も終わり、普段より4、5日早く校了となる『ボクシング・マガジン9月号』の編集作業もドタバタと終えた8月上旬。すっかり森のようになってしまった庭の木に巣くうセミたちより、ふた足も早く抜け殻になっていた。けたたましい鳴き声のシャワーが、まるで嘲笑うかのように耳をつんざく。鬱陶しくて、昼寝どころではない。

 耳元に置いてあったスマートフォンが、唐突に彼らの鳴き声を切り裂いた。

「今日の夕方、時間ありますけどどうですか?」

 1本のLINEが飛び込んできたのだった。

 待ちに待った連絡だったはずなのに、いざその段になると急に慌てふためいてしまった。もう忘れられてるかな、試合直後だったしな…と半ばあきらめ、試合からひと月経ったころに連絡してみようかな、くらいののんきな体勢だったから。同時に、彼が覚えていてくれたことがことのほか嬉しくて跳ね起きた。

 7月21日、東京・後楽園ホール。日本フライ級タイトルマッチ、チャンピオン、ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)対挑戦者6位・桑原拓(大橋)。あの試合から3週間が経とうとしていた。

「明日は髭、剃りますよ」──。決戦前日のオンライン取材での彼の言葉を思い出し、こちらも相応の覚悟で臨まねばならないと思った。できるかぎり身綺麗にし、伸ばし放題だった髭も落とし、2、3発両手で頬っぺたを張った。


 やはり、ハナからスピード勝負はしないつもりだった。

「合わせたら、こっちがペースを持っていかれてしまいますからね」

 さも当然のように言うが、目の前で速く動き、しかも攻撃してくるものに対し、相応に反応してしまうのは人間の、いや生物の本能、性。それを無視することは、どんなに強い意志を持ち、頑なに拒否しようとしても、なかなかできることではない。だが、彼はその土俵には決して立たなかった。それは「スピードで負けていない」という確信があったからこそなせる技でもあった。

「桑原は、いろんな動きがめちゃめちゃ速いんですけど、それは見ている人たちの目に映る“見た目の速さ”なんです。体感速度、やってる本人同士のスピードでは負ける気はしませんでした。だから例えば一緒にパンチを出しても、こっちのほうが先に当たるな、みたいな。僕の方がリーチも長かったですし」

初回、右の同時打ちで先に捉え、ダウンを奪った王者。桑原もよく立った
初回、右の同時打ちで先に捉え、ダウンを奪った王者。桑原もよく立った

 それを象徴するシーンはいきなり飛び出した。初回、右のほぼ同時打ちがカウンターとなり、ダウンを奪った場面だ。

「あのダウン以降、彼はぴょんぴょんと動き回ってましたが、顔は常にこわばっていました。時々笑ったりもしてましたけど、ほんのわずか、表情は引きつってましたから。そういう意味ではプレッシャー、かかってたのかな、と思います」

 戦前、両者を取材した(『ボクシング・マガジン8月号』)が、その際、桑原はやはり阿久井を「大変なパンチの持ち主」と、ことのほか警戒していた。それをいきなりまざまざと見せつけられたのだ。
 初めてのノックダウン。しかも、ものの見事なカウンターで。立ち上がったこと自体、不思議なほどの強烈なもの。それに早々のビハインドだ。メンタルが崩壊したっておかしくない。だが、その後も超速のスピードで桑原は動き回った。これはやはり彼の資質の高さ、練習量、そしてこの試合に懸けるおそろしいまでの執念を感じさせられるもの。やはり彼もまた、並の男ではなかった。

 しかし、ここで得た大きなアドバンテージで、一気に勝負に転じない阿久井に、普段、他のボクサーには感じるもどかしさはなく、恐ろしさすら感じたのだった。

テンポと間

入りすぎず、離れすぎず。絶妙な距離を保ってプレッシャーを与えた

入りすぎず、離れすぎず。絶妙な距離を保ってプレッシャーを与えた

 速い連打を打つ。バックステップで離れる。右へ左へとサークリングする。いずれももの凄い速さで。しかし、阿久井は悠然と、じりじりと間合いを詰めていく。誰が見ても「プレッシャーをかけている」とわかる、猛然とした攻め方では決してない。

「試合前からの作戦として、ただプレスをかけるんじゃなく、ずっと同じ距離にいようと考えていました。詰めすぎず、離れすぎず。当たるか当たらないかというところ、それを保とうと。それが自分の距離かなと思うんです」

 激しい攻撃、いわゆるラッシュ。それは桑原の“見栄えの良い”動き同様、派手ではある。が、こと“効果”という点に関して、はたしてどうか。遮二無二連打を放つが、的確性を欠く──。そういう光景は、それが4回戦だろうが世界戦レベルだろうが、何度も見てきたものである。阿久井はその点、実にわきまえている、と感じた。

 桑原がどんなに下がっても、サイドへ動いても、阿久井は“ココ”にいる。これだけでもかなり不気味だ。その上、自分がものすごい数の連打を出しているのに“間”を読み切られ、たった1発のパンチを強く確実にヒットされる。桑原にかかっていた精神的圧迫は相当なものだったろう。

「プレッシャーのかけ方だけは自信があるんです」。阿久井は電話越しで屈託なく笑った。

元世界2階級制覇王者サラゴサ。辰吉の2度を含め、日本人には全勝。老獪なテクニシャンだった Photo/Getty Images
元世界2階級制覇王者サラゴサ。辰吉の2度を含め、日本人には全勝。
老獪なテクニシャンだった Photo/Getty Images


辰吉に2度勝ち、西岡利晃の野望もことごとく退けたウィラポン
辰吉に2度勝ち、西岡利晃の野望もことごとく退けたウィラポン

 元々、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)とダニエル・サラゴサ(メキシコ)を参考にしてきたという。「ふたりとも、岡山の大先輩、辰吉(丈一郎)さんと戦った選手ですよね。辰吉さんのスピードを攻略したふたり。特にウィラポンはずっと好きだったんです」

 サラゴサのことは、父・一彦さんが現役時代、好きだったという。
「(サラゴサは)辰吉さんに2度勝ってますが、父が『めっちゃスピードが遅いのに、速い辰吉に当てるんよ。わしがやるんはこれだ!』って、当時言ってたのを憶えてます」

 いまになってようやく、父が感動していたこと、言っていた意味がわかるようになったのだという。

父・一彦さんと阿久井。スピードに対する思想がしっかりと受け継がれている 写真_本間 暁
父・一彦さんと阿久井。スピードに対する思想がしっかりと受け継がれている 写真_本間 暁

 こうして、阿久井の“スピード”に対する思想、礎は出来上がってきたのだが、さらに確信を深めた試合がある。それが、井岡一翔(Ambition、現・志成)対田中恒成(畑中)。昨年末に行われた“世紀の一戦”だった。

「井岡さんは、ミニマム級のころはスピード感があったんですが、スーパーフライ級に上がってからは特に、スピードがある選手に対して、テンポを落として対抗してるような気がします。恒成との試合もそうでしたが、4階級制覇したアストン・パリクテ(フィリピン)との試合を見て、本当に巧いなぁって思いました。世界チャンピオンなんだから、巧いのは当然なんですが(笑)。
 そう! パリクテとの試合は序盤、押されてる“風”だったんです。でもそれはあくまでも“風”。ああいう攻撃は、井岡さんからしたらへっちゃらなんでしょうね。相手にはスピードがあるから派手だけど、それはあくまでも“派手なだけ”なんです。ポイントを取るという観点からいったら、派手なボクシングは無駄な動きが多いと思うんです」

 井岡対田中、阿久井対桑原。「スローテンポ」対「スピーディ」。前に出ている選手と、“基本的に”下がっている選手、この2試合はそういう面から見れば対極だ。けれども、俯瞰して見ているはずのわれわれ第三者には見えない主導権争いは、「スローテンポ」の方が握っていた。つまり、井岡は田中を“おびき寄せ”、阿久井は桑原を“動かして”いた。そして、決定的な一撃を決めたという点でも共通する。

地方のハンディをもろともしない

 だが阿久井は、常にリズムよく、圧力をかけ続けられていたわけではないという。

「距離が違うなって思うことが何度もありました。そういうときは敢えてバックステップしてみたり、ステップを刻んでから入ってみたり。何かが違う、おかしいなって思いつつ、同じことをし続ける選手ってけっこういると思うんですが、そうし続けたってしかたがない。何かちょっとでも変えたら合うようになるものです」

 あ、そうそう! と両手を打ち鳴らす仕種を感じさせながら、例に挙げてくれたのが高校時代の体育祭の入場行進だ。
「大勢で行進を合わせるんですが、どうしてもズレる人がいる。そういう人たちに先生が『ツーステップすれば合うようになるから』って言ってたんです。それはリズムを取り戻すやり方として、ひとつ参考にしているものです」

 日本チャンピオン、ひいては世界へと駆け上がっていこうという教え子をそのひと言が支えているとは、まさかその先生も思うまい。しかし、阿久井は「日常にこそヒントが転がっているんです」と、さも当然のように語る。

 桑原のほんの些細な表情から、彼の状況を認識したのもそのひとつ。話している人の微細な顔の動きから、感情を探る。初対面の人の所作からその為人(ひととなり)を言い当てる。
 日常の中の無数に存在する物や事柄から何を感じ、何を選択し、ボクシングに結びつけ、それを自分なりにどう生かすか。それは人それぞれ違う。ある選手は何かを感じ、また別の選手は何も感じない。ともに感じたとしても、その感じ方も違うし、ボクシングに結びつける手法も異なるだろうし、ボクシングへの表現の仕方も変わるだろう。

「似たボクシングはあるけれど、決して同じものはない」。ボクサーの数だけ、異なるボクシングがある。それを生かすも殺すも自分次第──。だからボクシングは奥が深くておもしろい。阿久井は嬉々として語る。

 所属する守安ジムは、倉敷という大きな都市にあるものの、ことボクシングの世界から見れば歴とした「地方」である。が、彼からは、地方の選手が抱える悲壮感のようなものがまったく漂ってこない。
「それはきっと、僕が“本気”でやってるからです。たしかに、地方のジムは選手も少ないし、都会のジムとは違うところもたくさんあります。でも、『地方のハンディ』を言ってしまう選手は、本気でやってないんじゃないかって思うんです。だって、アマチュアを見れば、地方の学校が強かったりするじゃないですか。要は“やり方”です」

 決して順風満帆で歩んできたわけではない。高校時代の全国大会は最高でもベスト8。プロに入って新人王を獲得したが、中谷潤人(M.T)とのホープ対決に敗れ、世界ランカーにも屈している。だが、ただでは起き上がっていない。自分の感覚を信じ、考え、工夫を凝らす。「普通のことを考えたりやったりしていてはダメですから」と、“普通じゃない”ことを考え、やってきた。

 かつての阿久井がそうだったように、阿久井に敗れた矢吹正道(緑)にも、先日取材した際に“受け継がれたもの”を感じた。井岡に初黒星を喫した田中恒成も、はっきりと「井岡一翔の影響」を語り、自身がこれまで培ってきた“田中恒成にしかできないボクシング”との融合を図っている。だから、稀有なボクシングを備える桑原もきっと──。

『スピードボクシング』、それを追求する時代が長く続き、フロイド・メイウェザー(アメリカ)によって、ある種極まった。そして、井岡や阿久井、海外ではサウル・“カネロ”・アルバレス(メキシコ)によって、『スローテンポ』の時代へと突入した感を抱いていた。だが、阿久井は言った。

「メイウェザーのスパーリング、見たことありますか? めっちゃ勉強になりますよ。それこそ“間”で当てている。達人だなって思います。力の流し方に無駄がないんですよ」

 メイウェザーほどのスピードにも翻弄されず、メイウェザーの“真”を見つめる。決してブレない目に、わが身を恥じた。そして──。

「この前の最後のワンツー、“パンチを予見する男”福田直樹さんに撮られちゃったんです。でも、予見されるようじゃ、僕もまだまだだなって。自分では相手にも周りにもわからないように打ってるはずなのに……」

 阿久井は悔しがる。ベストショットを撮られて喜ぶ選手たちの中、彼だけは違った。やはりひと味もふた味も違う。記者も右ストレートをドカンと打ち抜かれた気分になったが、それは実に爽やかな心持ちにさせてくれるKOパンチだった。

立ち上がり、駆け出した者たち

心地よさそうにリングを動き回る桑原。やはりスピードは最大の武器だ 写真_本間 暁

心地よさそうにリングを動き回る桑原。やはりスピードは最大の武器だ 写真_本間 暁

 担架で運び出された敗者は、意識こそすぐに取り戻したものの、念のため検査入院。結果はまったく問題なく、翌日には自身のSNSも更新し、勝者へのリスペクトを語り、周囲の者たちへの気遣いもみせた。大橋秀行会長からは、本人の笑顔の写真も届けられた。

 故郷・大阪へ戻り、かつての同僚で日本ランカーの大里拳、登兄弟とつるんだり、友人たちと戯れたり、「のんびりしてきました。ちょっと太っちゃいました」と苦笑いを浮かべた。

 医師からは「ひと月は動いてはダメ」とストップがかけられていた。しかも、危険を警鐘するキツイ言葉で。「ずっと頭痛が取れなかったんです。脳震盪の状態だったようです」と、いまだから平然と振り返れるが、ボクサーの、しかもハードなパンチの威力をあらためてまざまざと思い知らされる。さらに「試合の内容も、全然憶えていないんです」と彼は付け加えた。

武居とのマスでは、“間”を意識した動きを見せていた 写真_本間 暁
武居とのマスでは、“間”を意識した動きを見せていた 写真_本間 暁

 ドクターの言葉を忠実に守り、その瞬間を待ちわびていた桑原は、8月下旬、横浜のジムでトレーニングを再開した。「スピードの変化、ですね」。緩急──。それは阿久井と戦う前から課題としていたこと。今回の試合では阿久井に上回られたが、目指すべき道は、決してブレていない。

 シャドーボクシング、元K-1世界王者から転身してきた武居由樹とのマスボクシング、サンドバッグ打ち。相変わらずスピーディで、キレのあるシャープな動きを披露しつつ、テンポと“間”を意識しているように感じた。

「ここで負けてよかったです」と、桑原はハッキリと言った。悔しさにまみれて何も手につかない状態でも不思議ではない。けれど、すでに彼は様々な整理をできている。自分自身をしっかりと見つめ直している。そして、さらに険しい道のりを歩む覚悟もできている。同じ“95年世代”で、ひと足先に同様の想いにまみれ、すでに走り始めている田中恒成もしかり──。

 もがき苦しみ、それでも立ち上がり、駆け出す姿。それもまた、われわれに大切なものを教えてくれる。

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