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2021-11-11

新日本プロレス暗黒期に藤波辰爾が社長に就任! 自分を偽ってスタートした引退ロード…【週刊プロレス】

1988年8月8日のアントニオ猪木vs藤波辰巳

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 1999年、社長に就任。総合格闘技ブームの裏で新日本の業績は次第に下降、アントニオ猪木が何かと口出ししてきた時期でもあった。藤波辰爾自身は「エッ、この時期に? まだ早いんじゃない?」と感じたそうだが、一方で旗揚げメンバーだからこその責任感や逃げ出せないという思いもあった。社長就任の要請された時の思いは?
      ◇        ◇        ◇
「まず、悩みました。受けていいものかどうかって。本来は願ってもないことのはずなんだけどね。その当時は新日本プロレスの中でいろんな動きがありすぎて。そのうちに……とは考えていたけど、要請されたときにすぐ『はい、わかりました』と答えるには程遠いものがあって。

 悩みっていうか、いろんなことをどう整理してどう収拾していけばいいかっていうのが山積みで。もうリング上に神経を向けられない状態。選手が“心、新日本プロレスにあらず”というような状況。そんな中で任されたからね。

 僕のプロレス人生になかでも苦しい5年間だったね。新日本プロレスをどう作っていくかっていう夢もあるけど、反対に興行会社として今の状況をどう収めていくかっていうのもあって」

 社長業に追われ、年に何試合かスポット参戦するぐらいで次第にリングからは遠ざかっていく。

「自分が現場とフロントの間を取り持って、いい形にしなくちゃいけない。それがなかなかうまくいかなくて。みんな不信感を抱いちゃってて。

 選手はどこかに“自分が、自分が……”っていうのがあるんだけど、あまりにもそっちの方向にばっかりいっちゃうと組織としてまとまらなくなっちゃう」

 2000年には「エピローグ・オブ・ドラゴン」と題した引退ロードがスタート。新日本を立て直すべく社長業に専念すると思われたが、本心はそうじゃなかった。ではなぜ現役生活にケジメをつけようとしたのか?

「その時はもう、身を切る思いですね。というのは、その頃は選手が次々と(新日本プロレスを)離れていってたわけで。一方で年間スケジュールはもう決まってて。会場を押さえてそれに応じた予算も立てなくちゃいけない。

 会場に応じた収入の目算もあるわけだけど、それに届かなかったりで予算が立てられなくなっちゃう。当時はテレビ朝日が大株主で(新日本は)子会社でもあったから、子会社の社長会があって1人で行かされるわけ。そこで新日本プロレスの年間計画を発表しなくちゃいけない。

 資料を持って発表するわけだけど、本当にできるのかって問われてね。『できます』って答えるんだけど、計画を実現ために興行をどうするかで目いっぱい。そっちばかりに神経使って、リングに上がれるような状態じゃない。

 ビッグマッチも多かったんだけど、選手が少なくなってだんだんお客さんが呼べる対戦カードがなくなっていく。猪木さんはもう引退してるし頼るわけにもいかないし。そうなるともう、自分が引退を発表して、それを売りにするしかないってなってしまって。

 でも、心の中にそういう気持ちはなかった。ウソをつくわけじゃないけど、もう切り札はそれしかないって考えになって。で、“藤波辰爾引退カウントダウン”って。何試合かやったね(苦笑)。

 でも自分の中ではウソをついてやってるわけだから、ものすごくやるせなかった。ここまでしないといけないのかって」

 84年の大量離脱後などは切り札カードとして猪木vs藤波があった。

「東京体育館(1985年9月19日)と横浜文化体育館(1988年8月8日)。あれは自分にとってはいい思い出、宝でもあるんだけどね。でも2試合とも危機的状況にあっての猪木さんとのシングルマッチで、やるせない思いもあった」

(つづく)

橋爪哲也

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