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2021-11-07

WWWFジュニア王者凱旋帰国で巻き起こった藤波辰巳ドラゴンブーム…超過密日程でニューヨーク日帰りも【週刊プロレス】

藤波辰巳のドラゴンロケット

 1978年2月、藤波辰爾はジュニアヘビー級とはいえ、当時全米3台団体の1つであるWWWF(当時)のベルトを土産に凱旋帰国。長州力や天龍源一郎が“革命戦士”と呼ばれるが、日本にプロレスを根付かせた力道山、スケールの大きなアメリカンプロレスで人気を博したジャイアント馬場、プロレスに格闘技の要素を取り入れたアントニオ猪木に次いで、本当の意味でスタイル面で革命を起こしたのは藤波辰爾だった。

 スピードにあふれ、キレ味鋭いテクニックを生かした藤波の動きはセンセーションを呼び、新日本プロレスにジュニアヘビー級ブーム、いやドラゴンブームが巻き起こる。そして会場にはいまでいう“プ女子”、若い女性ファンがあふれた。

 久しぶりに踏んだ日本の地。誰にも知られずひっそりと西ドイツへ旅立った藤波だが、ニューヨークで奪取したベルトを手に帰国した際には大勢のマスコミに取り囲まれた。カメラを向けられても藤波自身、「同じ便にアメリカの有名な歌手でも乗ってるのかと思った」というほど。そして1978年3月3日、群馬・高崎市民体育館で凱旋帰国第1戦を迎える。ぶっつけ本番でドラゴンロケットを繰り出したのは有名な話。

「周りの雰囲気が変わっていくっていうのを少なからず感じてたけど、自分はそこまで見る余裕はなかったね。僕自身、日本プロレス界でどこまで生き残っていけるか、支持されるかって必死だった。リングに上がった限り、自分が持ってるものをすべて出し切るんだってことだけ考えて。今日1つ新しい動きを出したら、明日はまた1つ新しい動きを、明後日はまた1つ新しい動きを出すって、それだけを自分に言い聞かせてリングに上がってましたね」

 凱旋帰国時にすでにロサンゼルス、ニューヨークで2度の防衛に成功していた藤波。しかし、しばらく日本で防衛戦はおこなわれず、新日本のシリーズに参加しながらアメリカで防衛戦を重ねていった。時にはシリーズ中に渡米して防衛戦をこなし、すぐ帰国して巡業に合流するといったスケジュールも。帰国シリーズには3月18日=愛知・豊明、3月20日(現地時間)=ニューヨーク・MSG、3月22日=滋賀・大津という試合記録が残っている。

「大変だったけど、やりがいもあったね。それだけいろんなところから声をかけられたってことだしね。もうニューヨーク日帰り、試合が終わったらそのまま空港に行って飛行機に乗るって感じ。今のように直行便も少ないし、乗り継ぎとか給油とかもあっただろうからね。

 当時は若かったし、その忙しさがまた心地よかった。確かに疲れてるんだろうけど、そんなに疲労は感じなかったね。いまだにそのクセが治らなくてね(笑)。スケジュールが埋まればうれしい。スケジュールが空いてたら、不安になっちゃいますね」

(つづく)

橋爪哲也

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