50周年を迎える新日本プロレスには旗揚げ以来、時代とともにさまざまなキャラクターの外国人レスラーが襲来してきた。80年代初頭までの旗揚げ10年に絞れば、タイガー・ジェット・シンとスタン・ハンセンがエース外国人だったと言える。 両雄は81年に全日本プロレスに移籍したため、シンは8年、ハンセンは5年(1978年には来日していないので実質4年)しか参戦していないにもかかわらず、ともにアントニオ猪木からNWFヘビー級王座を奪ったこともあって、強烈な印象を残している。
新日本プロレス50年を振り返る企画第2弾として、過去に週刊プロレス本誌、特集号などでおこなった外国人レスラーのインタビューをここに再録する。第1回は“不沈艦”スタン・ハンセン。※2010年5月、アントニオ猪木50周年を記念して出版された「A・猪木50years~上巻」より。
――初来日は全日本プロレス(1975年9月)でしたが、新日本プロレスで闘うようになったいきさつから聞かせてください。
ハンセン 1976年、私はWWWF(当時、現WWE)で闘っていた。それは私にとって、レスラーになって初めてのビッグチャンスでもあった。ジェイ・スタジアム(NYメッツの前本拠地)でのビッグショー(同年6月25日=現地時間、猪木vsモハメド・アリが行われた同時刻)でブルーノ・サンマルチノとのストーリーが一段落した後、ビンス・マクマホン・シニアから「ニュージャパンへ行ってイノキと闘わないか?」と言われた。ビンス・シニアからのオファーだし、断る理由は何もないから「OK」と返事した。それで1977年1月に初めてニュージャパンに行ったんだよ。
――その時点で新日本のこと、猪木のことはどの程度知っていたんですか?
ハンセン ほとんど知らなかった。私にとってはビンス・シニアがくれた次のチャンスというぐらいの感覚だった。でも結果的に、ニュージャパンに行ったことで私の人生は大きく変わった。最初のツアーでタイガー・ジェット・シンと一緒だったことを覚えてるよ。
――あなたの新日本でのデビュー戦(77年1・7越谷)がTVマッチで、いきなり猪木とのシングルマッチだったことは覚えてますか?
ハンセン そうなのかい? もうずいぶん昔のことなんで忘れてしまったよ(笑)。
――結果はあなたの反則負けです。試合中にシンと上田馬之助が乱入して……。
ハンセン そう言われれば、そうだったかなぁ……。最初のツアーで何度もシングルで闘ったことは覚えてるけど。
――当時の猪木の印象は?
ハンセン とにかく動きが速かった。それも素早くて、一瞬たりとも気が抜けなかった。少しでもスキを見せれば攻撃してくる。それまで私が闘ってきたなかでもグレートなファイターだと感じた。ニュージャパンのトップだったし、イノキを倒すことが私の目標になった。
――猪木と闘っていくなかで、アメリカンスタイルとの違いは感じましたか?
ハンセン 少しの違いしか感じなかったよ。私は私のスタイルで闘うことを意識するだけで。タイガー・ジェット・シンはタイガー・ジェット・シンのスタイルで闘っていたしね。
――振り返ってみれば、あなたと猪木の闘いが日本のスタイルを変えていったと思います。いい試合をすれば敵味方関係なく、外国人レスラーにも声援が送られるようになったのはあなたが最初だったんじゃないでしょうか?
ハンセン テリー・ファンクがいただろ? それまでアメリカンレスラーで応援されていたのはテリーだけだと思う。私の場合はイノキと何度も闘っていくにつれ、はじめはバッドガイだと感じていた日本のファンが、私のことをグッドガイだと理解してくれたんじゃないかな? 私は私のスタイルを押し通しただけで、日本のファンのことを特別に意識したことはなかったよ。
(つづく)