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2021-12-10

「日本人を恐怖で震えさせてこそ成功につながると考えた」タイガー・ジェット・シンが語った“狂虎の深層”<2>

タイガー・ジェット・シン

 前回はインドからカナダに移住して、フレッド・アトキンスのコーチを受けるところまで。まだ狂虎は誕生していない。今回はカナダ時代と新日本デビューに至るいきさつ。そしてアントニオ猪木のライバルとなっていったのかを語ってもらった。
※週刊プロレス2011年3月9日号(No.1567)掲載。

――聞いただけでも厳しいフレッド・アトキンスのトレーニングに、よく5年も耐えられましたね。

シン 彼の練習方法は、私がインドでやって来たものと同じだったからだろう。とても厳しい練習だったけど、それがいつか自分のためになると思っていたし、強くなるにはそれが一番だと思っていた。彼の厳しいトレーニングを乗り越えてきたからこそ、世界各地でチャンピオンになれたんだと思う。ニュージャパンのレスラーはカール・ゴッチに教わった。彼もアトキンスと同じようなトレーニング法だっただろう。だからニュージャパンでは、あれだけ優秀なレスラーが数多く生まれたんだ。

――では、カナダでのプロレスデビューはアトキンスの紹介で?

シン イエス。アトキンスがフランク・タニー(トロント地区のプロモーター)に紹介してくれた。当時、その地区にインド人レスラーはいなかったし、すぐにメープルリーフ・ガーデン(トロントのスポーツの殿堂)で試合が組まれるようになった。フランク・タニーには感謝している。彼は私に最初のビッグチャンスを与えてくれた。何より彼は誠実で、人をだますことはなかった。だから私は100%の力で彼に応えた。

――その後、日本に渡るまでの間、インドには帰っていないのですか?

シン 1970年に一度、インドに戻った。だけどそれはカナダでの成功をあきらめたわけじゃなく、スクジット(夫人)と結婚するため。すぐにカナダに戻って来た。

――新日本に行くきっかけとなったのは?

シン 確か香港だったと思うが、1972年にある日本人ビジネスマンと会った。彼は私のファイティング・スタイルがとても狂暴であることを見て、ニュージャパンが探しているレスラーにピッタリだと思ったんだろう。ジャイアント馬場のオフィス(全日本プロレス)にはアブドーラ・ザ・ブッチャーやザ・シークといったヒールレスラーがいたけど、ニュージャパンにはいなかった。そもそもトップクラスのガイジン・タレントすらいなかった。当時、アントニオ猪木(新日本)のビジネスは、ババ(全日本)に比べてよくなかっただろう。だからこそ、私は「ニュージャパンに行かないか?」と聞かされてチャンスだと思った。そして実際、日本に行って、リングサイドからニュージャパンに試合を見た。

――1973年5月4日、川崎市体育館大会ですね。山本小鉄を襲撃して、トップヒールの第一歩を踏み出した。

シン 私はババよりもイノキの方がチャンスがあると思ってニュージャパンを選択した。リングサイドから試合を見ていて、素晴らしいレスラーがそろっているなと感じたし、彼らと闘いたいと思った。私はヤマモトをリスペクトしている。ハートの強いレスラーだったし、コーチとしても優秀だった。素晴らしいレスラーを多く育てている。だけどあの時は、私を変な目で見ていた。私はターバンを巻いてリングサイドに座っていたのだが、それまでそういうシーンを見たことがなかったのだろう。ヤマモトが変な目で見るから、イスで殴って流血させた。でもその時、会場にエネルギーが充満したのを感じた。

――それにしてもあなたはファンだけでなく、記者やカメラマンにも暴行を働くので、われわれも試合会場に入るとピリピリしてました。遠くからあなたの声が聞こえただけで逃げていたほどです。

シン ナンバーワンになるのは何事も徹底しなければならない。イノキの敵としてナンバーワンになるには、日本人みんなが恐れるレスラーにならねばならないと考えた。それまで観客をレスラーが襲うということはなかった。だが、それをしたことで日本人に強烈な印象を与えることに成功した。リングに上がっても、凶暴性を失うことにないように闘った。ただし、それは私のごく一部。それでもヒールに徹することが成功につながることだと思っていたし、ニュージャパンが成長していくことだと考えていた。実際、ニュージャパンのビジネスは上がったし。私は猪木を選んで正解だった。

(つづく)

橋爪哲也

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