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2022-10-15

大晦日格闘技メガ興行は“燃える闘魂”の遺産…アントニオ猪木さんのギャラは? 新日本プロレス歴史街道50年<特別編3>【週刊プロレス】

大晦日にリングでダーッ!を叫んだアントニオ猪木さん

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引退後のアントニオ猪木さんが格闘技化に残した大きな遺産ともいうべきが大晦日の格闘技メガ興行。初開催は2000年。すでに90年代にはW★ingプロモーションやユニオンプロレスなどが“年越しプロレス”“カウントダウンプロレス”を開催するなど、プロレス界ではおなじみになっていたが、会場は京都大学・西部講堂や東京・後楽園ホールなど。それをドーム級の大会場開催にスケールアップしたのが猪木さん。だが、そのきっかけはちょっとした雑談だった。

      ◇     ◇     ◇

2000年にスタートした大晦日の格闘技メガ興行。初開催はプロレスの大会だったが、翌2001年はPRIDEを主催していたDSE(ドリーム・ステージ・エンターテインメント)が運営しての総合格闘技大会に。K-1と猪木軍(主にPRIDE参戦選手)の対抗戦が組まれた。

2002年も同様の運営体制で開催されたが、試合ごとに総合格闘技ルールかK-1ルール、異なる形が採られていた。2003年は日本テレビが「INOKI-BOM-BA-YE」、TBSが「Dynamite!!」、フジが「男祭り」と3局が格闘技大会を中継し、「格闘技祭り」として話題となった。

DSEは2006年まで、K-1は2010年まで大晦日大会を継続。一時ブランクがあったものの、2015年からはRIZINに引き継がれているほか、ボクシングなども進出している。

さて、初開催となった2000年の「INOKI BOM-BA YE」だが、初めから猪木さんを総合プロデューザーに据えて大会を開催しようとしたわけではなかった。大晦日に大阪ドーム(現京セラドーム大阪)が空いているので何かイベントはできないだろうかと、フジでの中継が定着する前からK-1の番組にかかわっていたプロデューサーを中心に集まって話していた。

さまざまな案の中にあったのが、「21世紀を迎えるにあたって、カウントダウンの『ダーッ!』ってできないかな?」というもの。堅苦しい席での話し合いではなかったので、冗談半分で出たものだったが、「4万人の『ダーッ!』か? 面白そうだね」となって、猪木さんサイドに話を持っていったところOKが出た。

その時点では、大阪ドームに三々五々集まってきて時間が来たらカウントダウンを初めて「ダーッ!」をするというもの。そこから「せっかくだから試合もできないかな?」と話が膨らんでいった。

しかし新日本プロレスは1・4東京ドームが控えていることからあまり乗り気でなかった。そこで当時、エグゼクティブ・プロデューサーに就任していたことから猪木さんはPRIDEに選手の派遣を要請。また、猪木さん個人とつながりの深い小川直也や橋本真也、安田忠夫らと、そのラインから選手を集めた。結果的にPRIDE戦士をプロレスのリングに引っ張り出す形となり、格闘技とプロレスの融合を目指した大会となった。

ちなみにこの時の猪木さんのギャラは2000万円と言われている。もともと「ダーッ!」をするだけにもかかわらず通常の10倍も支払われては申し訳ないと思ったのか。自身もヘンゾ・グレイシーとのエキシビションマッチをおこなっている。

同大会の主催は在阪の毎日放送。当日はスカパーが生中継し、毎日放送では年明けに録画中継して8・1%の視聴率を獲得。この成功があったからこそ、翌年からの継続につながっていった。

ところで当時、猪木さんはカリブ海に沈んだ海賊船の財宝探しに興味を示していた。そこで主催者である毎日放送の、海賊船が沈んでいると思われる地域のサルベージ権を取得するための協力を申し出ている。その金額は2億円とも4億円とも言われていたが、それを肩代わりしてもらえないかというもの。そしてその条件として出したのが「オレを使って番組を作ってもらって構わない」。

残念ながらこの取引は成立しなかったが、もし毎日放送がこの話に乗っていたら、猪木さんを主役にした「川口浩探検シリーズ」のような番組ができていたかもしれない。それはそれで見たかったが……。

橋爪哲也

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