みなさんはどこで春近しを感じますか。
日に日に温みを増していく日差し? にぎやかになってきた鳥のさえずり?
中には、なかなか起きられなくなった朝の目覚めを挙げる人もいるかもしれません。
春眠暁を覚えず、と言いますから。
五体の感覚をピーンと研ぎ澄まさなければいけない力士にとっても、この眠りはとても大事なんです。
でも、さまざまな理由で眠れず、悶々とした夜を過ごす力士もいます。そんな力士たちの不眠にまつわるエピソードを集めました。
※月刊『相撲』平成31年4月号から連載中の「大相撲が大好きになる 話の玉手箱」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
熟睡は引退後に
唐突ですが、力士はいつか、辞めなくてはいけません。引退です。眉毛が濃く、上野の山に銅像が立っている西郷ドンにどこか似ていることから“角界の西郷隆盛”と呼ばれた横綱武蔵丸(現武蔵川親方)も、平成15(2003)年九州場所8日目、ついにそのときを迎えました。前日の7日目、西前頭2枚目の土佐ノ海(現立川親方)に引っ掛けで敗れて3勝4敗と黒星が1つ先行したところで、
「もはやここまで」
と引退を決断。翌8日目の朝、引退届を提出し、午後に福岡市内のホテルニューオータニ博多で引退会見を開いたのだ。
会見の一番最後に、
「今、一番したいことはなんですか」
という質問が飛んだ。すると武蔵丸は少し考え、小さな声でこう答えた。
「寝ることかな」
15年に渡る現役生活にピリオドを打つのは容易なことではなく、決断するまでの数日間、やはり眠れない夜を過ごしていたのだ。もっとも、これは武蔵丸だけのことではない。令和3年1月29日に誤嚥性(ごえんせい)肺炎のために82歳で亡くなった元横綱栃ノ海(花田茂広さん)は引退を表明してから2日2晩、こんこんと眠りに眠ったという。それだけ横綱はプレッシャーのかかる地位でもある。肩の荷を下ろしてみる夢はどんな夢だったのだろう。
月刊『相撲』令和3年3月号掲載