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2025-02-19

追悼・グラン浜田…多団体時代の扉を開き、インディー団体の目付け役として存在感を放った“小さな巨人”【週刊プロレス】

左から星川尚浩、タイガーマスク、ザ・グレート・サスケ、グラン浜田、中島半蔵

グラン浜田は選手として第1次UWF、ユニバーサル・プロレス、レフェリー兼コーチとしてジャパン女子プロレスの旗揚げにかかわった。また、1990年代半ばから主戦場にしたみちのくプロレスでは大きな存在感を放つとともに、インディー団体であるユニバーサルの成功が多団体時代につながり、プロレスラーを目指す若者の夢を叶えていくことにもなった。その意味では大きな役割を果たしている。また浜田は、そうそうたる実績を残しながらリングを下りれば豪快な一面を持ち合わせていた。そう振り返ると、また1人、“昭和のプロレスラー”がこの世を去った印象が強い。(文中敬称略)


グラン浜田は、とにかく気が強かった。生き馬の目を抜く新日本プロレスでは、そうでなければ生き残れない。小さな体だけになおさらだ。体格差がある相手でもひるむことなくぶつかっていく。時にはケンカファイトも辞さず。そのスタイルは星野勘太郎、獣神サンダー・ライガーも同様だ。

一方でバックドロップにしても低い身長をカバーすべくジャンプして相手をマットに叩きつけるなど、小さな体というハンディをカバーすべく動きはダイナミックだった。

強く印象に残っているのは、発達した大腿部。見事に鍛え上げられ、カエルのような脚だった。1981年4月23日、突如としてアニメの世界からタイガーマスクが飛び出してきた。それを聞きつけた浜田は変身を直訴したものの、その独特の体形からすぐに正体を見破られるとして却下されたとのエピソードを残している。

佐山聡は浜田がメキシコ遠征に出発してから入門してきたため若手時代には対戦経験なし。ともにトップスターになってから対戦。新日本マットで3度シングルで闘ったが、浜田は1度も勝利できなかった(タッグ対決は2度のみ)。

ユニバーサル・プロレスが活動停止後、新日本参戦を経てみちのくプロレスに籍を置いた浜田。当時のみちプロは、それなりにキャリアを積んでいたものの若手ばかりの団体。当時はメジャー団体出身の選手から指導を受けてこそ認められる風潮。そうでないと、学生プロレスに毛の生えた程度と見られても仕方ない。ザ・グレート・サスケが浜田を迎え入れたのは、そのような批判的な目を解消するためでもあった。

実際、海外の団体が日本人選手を起用する際、誰のコーチを受けたか、どの団体出身かで扱いが変わっていた。それだけに浜田の存在は大きかった。

ユニバーサル・プロレス旗揚げの際には、自身は一歩引いて浅井義浩をエースとして盛り立てた。のちに浅井はウルティモ・ドラゴンに変身し、メキシコにプロレスラー養成学校「闘龍門」を設立。多くのレスラーを育成した。もし浜田がユニバーサルの旗揚げに参加していなかったら日本マット界、いや世界のプロレス界はまた違った世界となっていたはず。

それは旗揚げ前にコーチとして指導したジャパン女子も同じ。プロレスラーとしてのイロハを教え込み、クセの強い全日本女子と渡り合える選手が育ったからこそ、1990年代半ばの女子プロレス対抗戦時代に隆盛を迎えられたわけだ。

一方でリングを下りた浜田は、まさに昭和のプロレスラー像そのもの。特にパチンコ好きで有名。1990年代、雑誌での浅草キッドとの対談が企画されたが、約束の時間に遅刻。その理由は「確変がかかった」というもので、対談を終えるとその足で出玉を置いていたパチンコ店に戻っていったというエピソードも残している。

セミリタイア後は体調を崩した浜田。2018年暮れに夫人を亡くし、2人の間に生まれた息子も親元を離れると、何もやる気が起こらない状態になった。そんな父親を心配した文子に呼ばれてメキシコに移住した。波乱万丈な人生を歩みながらも、最後は愛娘のもとで旅立てたのだから幸せだったかもしれない。

“小さな巨人”よ、永遠なれ……。

橋爪哲也

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