“小さな巨人”グラン浜田(本名・濱田廣秋)が2月15日(現地時間)、入院先のメキシコの病院で亡くなった。74歳だった。1975年6月にメキシコに渡り、UWAで活躍。ミドル、ジュニアライトヘビー、ライトヘビーの3階級制覇(のちにウエルター級を含めた4階級)を成し遂げたほか、1976年には年間ベストバウト、最優秀外国人選手賞を獲得した、メキシコで最も有名な日本人となった。1979年2月に凱旋してからは日本とメキシコを往復、両国間のルートを確立した。(文中敬称略) プロレス入りする前の浜田広秋は柔道で活躍。軽量級ながら日本代表の候補に名を連ねるほどで、強化合宿にも参加したものの残念ながら代表には選出されず。ちなみにミュンヘン五輪では63kg以下級で川口孝夫、70kg以下級で野村豊和、80㎏以下級で関野忍がそれぞれ金メダルを獲得している(93kg以下級ではショータ・チョチョシビリ、93kg超級と無差別級はウィレム・ルスカが金メダルを獲得)。また、遺恨マッチにおいてフィニッシュに使用していた腕十字は、柔道時代に身につけた懐刀である。
その後、関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)が新日本プロレスの入門テストを受ける際に付き添ったところ、山本小鉄に「お前も受けていけ」といわれた。関川が入門する際、「浜田も一緒じゃないとイヤだ」と泣きついたのがプロレス入りのきっかけとなったのは有名な話。関川とともに第1号として旗揚げ戦前に新日本に入門した。
1972年3月6日の旗揚げ戦でデビューが予定されていたものの、豊登の復帰で先送りとなった。そして旗揚げ4戦目の同月16日、愛媛県県民会館で藤波辰巳(当時)相手にデビューを果たし、生え抜き第1号となる。
当時の新日本は、ほかに若手といえる選手は木戸修ぐらい。そのため連日、藤波との対戦が組まれた。デビュー戦を含め22連戦。魁勝司とのシングルを1試合挟むと、その後は藤波と魁との三つ巴のシングル連戦が組まれる形で旗揚げ3シリーズをの終盤にようやく外国人との初対決が組まれた(対戦相手はジョン・ファー)。その後、木原伸一、荒川真、栗栖正伸、佐藤一生、藤原喜明がその輪に加わっていく。
1975年6月、同時期に藤波は西ドイツ、浜田はメキシコに遠征するまで両者はシングルで66試合闘い、浜田は1973年5月31日、帯広市総合体育館での1勝しかできなかった(7分)。
1977年2月に凱旋帰国してからは、タッグを組みむことはあったものの対シングル戦は実現せず。最後の一騎打ちは2007年1月28日、無我ワールド後楽園ホール大会で組まれ、藤波がドラゴンスリーパーで勝利。通算戦績は浜田の1勝59敗7分に終わっている。
浜田がメキシコの渡ったのは当時営業本部長だった新間寿氏の口利きがあったから。浜田と同じ柔道経験者である新間は、プロレスラーを夢見た時期もあった。しかし体が小さいからと断念。もしかしたら自身の夢を浜田に重ねていたのかもしれない。
次第に若手の層が充実していった新日本。当時はまだジュニアヘビー級は確立されておらず、大勢のヘビー級の選手に囲まれるなか、体の小さい浜田がトップを取るのは難しい。リストラ候補のリストに名前が挙がったものの、誰よりも練習熱心だった浜田を高く買っていた新間氏は階級制のあるメキシコに遠征させることにした。
関川の付き添いで“裏口入門”した浜田は、メキシコで素質を開花させる。その道を開いてくれた新間氏に恩義を感じ、その後、第1次UWF、全日本プロレス、ユニバーサル・プロレスと、新間氏に義理立てる形で団体を渡り歩いた。それはユニバーサル・プロレスがFULLと団体名を変え、活動を停止するまで守り通した。
橋爪哲也
加入月0円! 週プロmobileプレミアムはバックナンバー2100冊以上から最新号まで読み放題!
週プロ送料無料通販!