close

2025-05-19

サブゥー追悼…FMWのデスマッチをアメリカに輸出! 伝説となったテリー・ファンクとの有刺鉄線マッチ【週刊プロレス】

1991年の初来日以来、FMWを主戦場にしていたサブゥーだったが、同団体ではザ・グラジエーター(マイク・アッサム)、ビッグ・タイトンといった大型レスラーの台頭もあって、外国人エースには手が届かなかった。FMWと並行して、アメリカではECWマットに上がる。

もともとECWは、1992年にトッド・ゴードン氏がNWAの復権を目指して旗揚げした団体。当時の正式団体名はイースタン・チャンピオンシップ・レスリングで、ジミー・スヌーカやドン・ムラコ、ティト・サンタナといった元WWE(当時はWWF)のベテラン中心の団体だった。

翌1993年、ポール・ヘイマン氏がプロデューサーに就任すると、新王者となったシェーン・ダグラスがベルトを投げ捨ててNWAの権威を放棄。団体名をエクストリーム・チャンピオンシップ・レスリングと改めてハードコアスタイルに大きく舵を切った。

フィラデルフィアの街はずれにある倉庫をECWアリーナの名で常打ち会場に、3WAYダンスと名付けた変則的な闘いや、凶器使用OKの闘いなどで熱狂的なファンを獲得していった。

サブゥーの初登場は1993年11月13日(現地時間)、ECWアリーナ(現2300アリーナ)。ホーク・ウォリアーと組んでテリー・ファンク&キングコング・バンディ組と対戦。変則ルールによるタイトルマッチで、テリーからTV王座を奪取。ここから同団体でのテリーとの抗争が始まった。

ここで両者はFMWスタイルのデスマッチをそのまま持ち込んだ闘いを繰り広げる。有刺鉄線を巻きつけたイスやバットを振り回す。体に有刺鉄線を巻きつけて相手に飛びかかり、有刺鉄線が体に突き刺さるのも関係なく何発も受け身を取った。ちなみにアメリカ製の有刺鉄線は、日本製に比べ太く、針も長い。1997年8月9日(同)、ECWアリーナでおこなわれたサブゥーvsテリーの一騎打ちは、ノーロープ有刺鉄線マッチを伝説の域まで昇華させる集大成の闘いとなった。

しかし2001年1月、ECWは負債がかさんで活動を停止。同年6月、ビンス・マクマホンが買収してWWEのブランドの一つとなる。おなじく同年3月に買収したWCWと連合軍を結成してWWEと対立するストーリーが展開されたものの長続きせず、ECWのブランド名は完全に表舞台から消えた。その間、サブゥーはインディー団体をサーキット。日本では全日本プロレスや新生FMW、ZERO1、みちのくプロレスなどに短期間上がった。

2005年、WWEがECWブランドを復活させるにあたって、PPV「ワンナイト・スタンド」を開催した(同年6月12日=同、ニューヨーク、ハンマーシュタイン・ボールルーム)。同大会でサブゥーは、元ECWのライノとシングル対決。テーブル破壊ムーブを惜しげもなく披露して勝利している(ちなみに同大会には田中将斗も単発出場、ザ・グラジエーターとFMWスタイルのファイトを繰り広げている)。

その2日前、元ECWアリーナ(当時の名称はニューアルハンブラ)で開催されたECW同窓会興行「ハードコア・ホームカミング」にも出場。メインで因縁のテリー、ダグラスとECWオリジナルルールである3WAYダンスの有刺鉄線マッチをおこなって勝利。“ECW復活祭”両大会に参戦した唯一のレスラーとなり、“ミスターECW”を証明した形だ。

その後、サブゥーはWWEと契約してECWブランドの一員となったものの、何かと制約の多いリングでは本来のファイトができず。ファンもオリジナルECWスタイルを望んでいたにもかかわらず、それとはかけ離れていたことから人気も低迷。サブゥーは大麻所持による謹慎処分もあって2007年5月に解雇された。

その後は世界各地のインディー団体にスポット参戦。日米のメジャー団体にも参戦したが、本来の輝くを発揮することはできず。その独創的なスタイルは制約の厳しいリングでは輝けなかった。その意味でも“インディーの帝王”であり、“キング・オブ・バーブドワイヤー(有刺鉄線)”だった。(文中敬称略) 

橋爪哲也
タグ:

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事