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2025-06-03

追悼・長嶋茂雄…テレビの番組表を変えた東京六大学のスター“女子プロレス実況のレジェンド”志生野温夫アナが振り返る“ミスター”【週刊プロレス】

長嶋茂雄さん

読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内病院で亡くなった。89歳。“女子プロレス実況のレジェンド”志生野温夫アナウンサーは日本テレビの局アナ時代、巨人戦の中継を担当。「長嶋のヒット、王のホームランは数え切れないほど実況しました」と振り返る。なぜ長嶋さんが“ミスタープロ野球”と称されるのか。志生野アナが明かした。(文中敬称略)

幼少時代は満州の新京(現長春)で育った志生野温夫アナ。志那派遣軍の報道部長だった父の関係で、委託に新聞記者が集まる環境だったことから、報道関係には少なからず興味があった。

終戦後、大分・竹田市に引き揚げてきての楽しみはラジオ。昼は野球中継、夜は歌番組を聴いていた。当時はまだテレビがなかっこともあって、ラジオが日常生活の中に溶け込んでいた時代だった。

ちなみに志生野アナは阪神ファン。後に日本テレビ入社するのだが、「巨人は大嫌いだった」と笑う。藤村富美男を応援し、志村正順、岡田実各アナウンサーなどのスポーツ実況を聴きながら、「野球場に行ってタダでプロ野球を見て、選手とも接して、実況中継もできて、アナウンサーっていいなぁ」とうらやましく思っていた。それとともに、当時からしゃべることが好きだった志生野少年は実況中継のまねごとをして、子供心に「アナウンサーになりたいなぁ……」と夢を抱いていた。

そういう環境で育ったことで、中学時代から心の奥底にアナウンサーになりたいという思いが芽生えていた。とはいえ、実際になれるとは思っていなかった。その時点では、あくまで憧れでしかなかった。

その後、國學院大学に進学して上京。昭和31年(1956年)、卒業する段になって就職先を決めなければならない。文学部に在籍していた志生野青年。当時、文系で就職先として人気が高かったのは映画会社。そして出版社、新聞社、ラジオ局と続く。当然、優秀な学生から人気の高い業種を志願していく。

テレビは3年前に放映開始したばかりで、当時はまだラジオが本流。ニッポン放送、ラジオ東京(現TBSラジオ)、文化放送を志望するも採用ならず。そこで仕方なく、2年前に開局していた日本テレビを志望する。当時の倍率は100分の1ほどだったというから、今からすれば広き門だった。

「優秀なヤツはみんなラジオ局に入って、テレビ局のアナウンサーは格下だとバカにされましたよ。ラジオ局に入れなかったんで、“じゃあ、テレビ局でもいいや。広告代理店よりはマシだろ”という感じ。だから最終面接の席では、NHKやニッポン放送で顔を合わせたヤツが来てました。あの頃はラジオ局に入れなかった落ちこぼれがテレビのアナウンサーになったという時代。まあ、私も戦後のどさくさに紛れてアナウンサーになったようなものですけどね(笑)」

第1志望ではなかったものの、テレビ局のアナウンサーになったのは結果的によかったと振り返る志生野アナ。プロ野球ファンだっただけに、日本テレビに入社しただけになおさらだ。ただ、志生野アナが入社した当時はまだレギュラー番組でなく、「日本テレビが巨人戦を毎日のように中継するようになったのは、長嶋茂雄が巨人軍に入団してから」。それまでプロ野球よりも東京六大学や高校など学生野球、都市対抗の方が人気が高く、六大学野球のスター選手の進路も、プロではなく社会人野球が主流だった。そう考えると、東京六大学のスターだった1人の男が、テレビの番組表を変えてしまったことになる。

ちなみに志生野アナが大学生時代、同期にあたるのが慶応のスター選手で、のちにフジ「プロ野球ニュース」の司会を務めた佐々木信也。パ・リーグに新加入したトンボユニオンズの創立1年目に入団。しかし3年で球団は解散し、佐々木信也はそのまま引退。彼が出場した試合の実況を担当したこともある。

当時、東京六大学野球は全試合中継しており、長嶋が当時の六大学新記録となる8号本塁打を記録した試合にもサブアナとして居合わせた。

「一塁を回るときに今でいうガッツポーズをして、三塁を回った時に両手を突き上げて万歳してたのを覚えてます。あの当時、そんなことする選手はいなくて、“派手なヤツがるなあ”と思ったのを覚えてます。8号の新記録を打ち立てて、“立教に長嶋という陽気で派手な男がいる”と全国に知れ渡ったんです。あの年の立教は杉浦(忠投手)、長嶋で優勝したようなもの。その長嶋が昭和33年、巨人に入ったことでプロ野球が注目されるようになったんです」

開幕戦で金田正一から4打席4三振を喫してプロデビューしたのは有名だが、その試合を日本テレビが中継。実況を担当した越智正則アナウンサーの名前までも押し上げ、そこから日本テレビは後楽園球場をホームとする全試合を中継するようになった。日本テレビからすれば、力道山に次いで現れた国民的スターが長嶋だった。

ちなみにプロレス中継が金曜夜8時だったのは、東海道新幹線が開業するまで金曜は移動日でプロ野球のゲームがなかったから(日曜にダブルヘッダーを行っていた)。のちにNET(現テレビ朝日)が月曜夜8時に中継を開始したのも同様の理由である。

橋爪哲也

<プロフィル>
志生野温夫(しおの・はるお)…1932年11月4日生まれ、大分県竹田市出身。1956年、國學院大学卒業後に日本テレビ入り。アナウンサーとして各種スポーツの実況を担当するほか、番組やイベントの司会を務める。1974年フリー転向。株式会社シオノ事務所代表。

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