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2025-07-05

ジャイアント馬場2度目のNWA戴冠劇! 親友でありライバルを奥の手で撃破!! プロレス歴史街道~愛知県体育館編(5)【週刊プロレス】

ハーリー・レイスとジャイアント馬場

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愛知県体育館最後のプロレス大会が6月29日におこなわれた。“結びの一番”のリングに立ったのは2000年代からを支えてきた棚橋弘至と丸藤正道。そして新日本、NOAHの次代を担う大岩陵平と清宮海斗。まさに日本プロレスから新日本、全日本、そしてNOAHと、同体育館を彩ってきたBI砲の流れをくむ4選手だった。新日本だけでなく全日本でも記憶、そして記録に残る激闘が繰り広げられてきた。(文中敬称略)

全日本プロレスが愛知県体育館に初進出したのは、新日本プロレスに遅れること2カ月半、1972年10月30日、「旗揚げジャイアントシリーズ」第9戦だった。国際プロレスから若手レスラーを借りて全7試合が組まれ、メインは世界ヘビー級王座(のちのPWFヘビー級王座)争奪第2戦として行われたジャイアント馬場vsテリー・ファンクの60分3本勝負。セミファイナルでは大熊元司&サンダー杉山組vsブルーノ・サンマルチノ&フレッド・ブラッシー組の3本勝負がおこなわれた。ちなみに第1試合は百田光雄vs鶴見五郎だった。初の名古屋大会の翌日、都内で鶴田友美(のちのジャンボ鶴田)の入団発表会見がおこなわれている。

2度目の進出は翌1973年4月23日「チャンピオン・カーニバル」終盤戦。すでにトーナメントで争われていた決勝戦は2日前に終えており、追撃戦としてタイトルマッチの連戦がおこなわれていた。この日のメインはザ・デストロイヤーがキング・イヤウケアの挑戦を受けてのUSヘビー級のタイトルマッチ。1-1から両者リングアウトで防衛を果たしている。

ジャンボ鶴田の初登場は同年12月12日。セミ前のシングルマッチでスタン・プラスキーに勝利。セミはアントン・ヘーシンクとカリプス・ハリケーンのシングルマッチ。メインは馬場&デストロイヤー組がフリッツ・フォン・エリック&キラー・コワルスキー組に2-1で勝利している。

愛知県体育館でのタイトルマッチで印象深いのは、ジャンボ鶴田vsキム・ドクのユナイテッド・ナショナル選手権試合(1978年9月13日)。1本目をキウイロールでドクが、2本目をジャーマンで鶴田が奪っての決勝ラウンド。60分時間切れとなったが、ドクが延長戦をアピール。鶴田も受諾したため、5分間の延長戦に突入。結局、65分を闘い抜いて、鶴田が王座防衛を果たしている。

全日本における愛知県体育館最大の出来事といえば1979年10月31日、馬場がハーリー・レイスを破って、世界最高峰2度目の戴冠劇が挙げられる。

全日本では計7度のNWA世界ヘビー級王者交代劇が起こっているが、それぞれの舞台は鹿児島、豊橋、名古屋、尼崎、佐賀、大津、横須賀となっており、会場規模ではその中で最大だった。

NWA世界王者のスケージュールは米国内の本部が管理しており、全日本にすれば招へいスケジュールに合わせて大会場を押さえるわけにはいかなかった。先に決まっている巡業スケジュールからタイトルマッチの日程を組む形だった。そのため、意外な地方会場で世界最高峰が争われることも多かった。

1974年12月2日、ジャック・ブリスコを破って、力道山時代から悲願だったNWA世界ヘビー級のベルトを初めて腰に巻いた馬場。7日後に奪回されたが、当時、同王座に返り咲いたのはルー・テーズをはじめ、エべレット・マーシャル、ブロンコ・ナグルスキー、ビル・ロンソンなど、旧NWA世界王座時代に活躍したレスラーに限られていた。

1977年2月、テリー・ファンクを破ったレイスがブリスコに次ぐ返り咲きを果たす。馬場にとってはリングを下りれば大親友であるレイスに先を越されたわけで、負けてられないと気合十分での挑戦だった。

序盤から積極的に攻め立てた馬場。とはいえレイスは、相手の攻撃をのらりくらりと受けながら王者に有利なルールを味方につけ、反則や両者リングアウトで逃げるのが常套手段。馬場はその点に気をつけて試合を進め、最後はランニング・ネックブリーカードロップを炸裂させて3カウントを奪った。

ブリスコに勝利した際も、1980年9月4日、佐賀スポーツセンターでのレイス戦でも同じフィニッシュ。大一番でしか繰り出さない“秘密兵器”がもたらした世界最高峰の座だった。

橋爪哲也

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