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2025-08-12

“現代に蘇ったネプチューン”ハルク・ホーガン伝説…WWFで王者となってプロレスを大衆娯楽に変えた【週刊プロレス】

アントニオ猪木にWWF世界ヘビー級王座初戴冠を報告したハルク・ホーガン

今や世界最大のプロレス団体となったWWE。その第一歩はハルク・ホーガンを主役にした全米侵攻だった。1985年に第1回が開催された「レッスルマニア」。音楽界や芸能界とのタイアップは批判を浴びたが、一方で大きな話題となってファン増も拡大。旧態依然とした既成概念をぶち壊すことになった。と同時にホーガンは、プロレス界を超えたスーパースターに成長していった(文中敬称略)。
週刊プロレス「ハルク・ホーガン緊急追悼号」表紙

1982年に全米公開された映画「ロッキー3」出演で人気が爆発したハルク・ホーガン。撮影時の主戦場はAWA。同世界ヘビー級王者のニック・ボックウインクルに何度も挑戦したが、ベルトを奪うことはできず。バーン・ガニア氏の反対を押し切って出演したことも頂点の座に手が届かない要因の1つだったが、もしその当時にAWA世界ヘビー級王者になっていたら、その後のWWF(当時)移籍、AWA崩壊はなかったかもしれない。

古舘伊知郎アナが「現代に蘇ったネプチューン」と形容したホーガンの筋肉美。その大胸筋には一筋の傷が残されている。それはAWA時代に因縁の抗争を繰り広げていたマサ斎藤にトロフィーで殴打されて負ったものである。

AWA世界ヘビー級王座への道を理不尽な理由で閉ざされたことからWWFへのUターンを決意したホーガン。アントニオ猪木を失神KOしたことも、レスラーとして一層の箔がついた。何よりビンス・マクマホンが気に入ったのは、そのカリスマ性だった。

テリトリー制時代のアメリカン・プロレスは、労働者層が楽しむ娯楽だったが、ビンスは明るく楽しく、子供からシニア層まで楽しめるファミリー・エンターテインメントに舵を切った。それにふさわしい存在がホーガンだったわけだ。

1979年から81年にWWFをサーキットしているが、WWFでブルーノ・サンマルチノ、スーパースター・ビリー・グラハムの跡を継ぐ大型パワーファイターとして若手ヒールの域を出ず、よほどのファンでない限り記憶に残る存在ではなかった。AWA、新日本を主戦場にしてWWFを離れていたこともあって、絶対的なベビーフェースとして再デビュー。イメージカラーをイエローにしたことも、明るいムードを盛り立てた。

1984年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)でWWF世界ヘビー級王座を獲得。アイアン・シークを下しての戴冠劇も、アメリカン・ヒーロー誕生を感じさせるに十分だった。

その後もしばらく新日本との掛け持ち参戦を続けていたが、1985年6月「IWGP&WWFチャンピオンシリーズ」終盤戦への来日を最後にWWF専属となった。

橋爪哲也

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