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2025-08-22

ハルク・ホーガンとビンス・マクマホンとの“最強タッグ”が変えたプロレス界のビジネスモデル【週刊プロレス】

WWF世界ヘビー級王者のハルク・ホーガン

1983年11月、新日本プロレス「第3回MSGタッグリーグ戦」に来日中、ハルク・ホーガンは来日していたビンス・マクマホンJr代表と契約を交わした。帰国後、WWFで再デビューを果たし、年が明けた1984年1月のMSG定期戦でアイアン・シークを破ってWWFヘビー級王座(のちに世界を冠す)に就く。その間、わずか3カ月。これでWWFの全米侵攻態勢が整った。その1年後、初の「レッスルマニア」が開催された。そこにはビンスの緻密な戦略があった。(文中敬称略)


ビンス・マクマホンJr代表が父シニアからWWFの経営権を買い取ったのは1982年6月。その時点でハルク・ホーガンは、AWAを主戦場していた。

当時のアメリカマット界は、それぞれのプロモーターが各地のテリトリーを守っていた。互いのテリトリーは侵さず、横の連係を取りながら選手の移動で利益を共有しようというスタンス。そのため、各地に地元のヒーローが存在した。世界王者が各テリトリーを回ってトップレスラーの挑戦を受けるNWAは、その象徴ともいうべき組織だった。

とはいえ、NWAに加盟していない団体はその恩恵を受けられない。シニア時代のWWFはNWAに加盟していたものの、独自の王者を認定、ニューヨークを中心とする東部をテリトリーにしていたことから、NWAに頼らなくてもいい団体だった。

そして1984年5月、シニアが亡くなると、ビンスは旧態依然としたシステムを破壊にかかる。いや、独占しようと動いた。それもやみくもにテリトリーを広げるのでなく、まずはその下準備に取り掛かる。

広大な国土を有するアメリカだけに、全米をサーキットするのは至難の業。野球(MLB/メジャー・リーグ・ベースボール)にしても各地区に分かれているし、カレッジフットボールでは4大ボウル(ローズ、シュガー、オレンジ、コットン)としてそれぞれカリフォルニア、ルイジアナ、フロリダ、テキサス各州で開催されていた(のちにローズ、シュガー、オレンジ、フィエスタ、コットン、ピーチの6大ボウルゲームに)。

アメリカでもTVとともに発展してきたプロレスだが、全米中継されるのでなく地元中心。ビッグマッチの会場に足を運ばせるための宣伝が主目的で、スタジオマッチを中心にケーブルTVでオンエアされていた。

ホーガンがWWF王者になるとファミリーエンターテインメントを打ち出し、全米各地のケーブルTVで放映。派手な演出とストーリーラインで、それまで地元のプロレスしか知らなかったファンに“新しいプロレス”に興味を抱かせる。とはいえ、遠く離れた地区のプロレスでしかない。それを身近にしたのがPPV(ペイ・パー・ビュー)というシステムだった。

それまでWWFでは、MSGで会場に入りきれなかったファンを地下の劇場に集め、スクリーンにライブ映像を流したクローズドサーキットをおこなっていた。それを衛星回線を介してニューヨーク、シカゴ、ロスの全米3大都市をつないだのが「レッスルマニア2」(1986年4月7日)。そして「レッスルマニア3」(1987年3月29日)ではミシガン州ポンティアックのシルバードームに9万3173人を集める一方で、開催元のデトロイト地区を除いてクローズドサーキットを実施している。

その一方で「ザ・レスリング・クラシック」の名でPPVをスタートさせ、のちに「レッスルマニア」「サマースラム」「サバイバーシリーズ」「ロイヤルランブル」の4大PPVに発展していった。

第1回「レッスルマニア」直後の1985年5月からNBCで「サタデーナイツ・メインイベント」を全米放映。それまでのTVマッチと異なり、惜しげもなくストーリーラインに沿った注目カードを流して高視聴率を獲得。年に数回の特番で1992年10月に終了したが、翌1993年1月から「RAW」をスタートさせた。

インターネット網の拡大とともにWWF(WWE)のTV戦略も変化。現在の専門チャンネル「WWE NETWORK」につながっていった。日本ではインターネットTV「ABEMA」で毎週火曜日にRAW、土曜日にSMACKDOWNが日本語実況解説つきで放送されている。

ビンス・マクマホン代表に先見の明があったからこそだが、ホーガンという切り札を手に入れたからこそ踏み出せた革命的な戦略だった。

橋爪哲也

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