3月23日の会見で、樋口和貞が現役引退を発表した。健康診断において「第一・第二頸椎の亜脱臼」が確認され、医師よりストップがかかった上での決断だった。デビュー以来、主力選手の一人としてリングを盛り上げ、KO-D無差別級王者時代は“DDTの強さの象徴”という使命を背負い、団体に殉じてきた男の突然のピリオドはあまりにも惜しいが、本人はどのようにその現実と向き合ったのか。駆け抜けた11年4ヵ月の現役生活の中で得たものも含め、4・5後楽園における引退セレモニーを前に最後の告白をDDTのファンへお伝えする。(聞き手・鈴木健.txt)
自分のプロレスができなかったらリングへ
上がるべきではない。だから引退試合も…
――昨日の会見後のSNSにおける反応は、総じて「引退は残念だけど、負傷箇所が見つかってよかった」でした。
樋口 本当に、そうだなと思います。自分は、こんな感じかなあと思ったんですけどね。他人事のような感覚なんですよ。当事者ではあるんですけど、違う人の話みたいで現実味がなくて。会見の間もいつも通り…普段のまんまでしたね。
――引退を発表した瞬間、もう戻れないとは思わなかったんですか。
樋口 そこはもう覚悟はしているというか、納得はできていたんで。自分の中で、もう腑に落ちていましたから、そういうのはなかったッスね。
――改めて時系列の確認をさせていただきます。1月12日の品川大会がラストマッチとなったんですが(高鹿佑也と組み、HARASHIMA&佐藤大地と旧ハードヒットルールで対戦)、検診を受けたのはその前ですよね。
樋口 そうです。そこで「あれ?」っていうのが見つかってから欠場に入りました。そのあと、お医者さんといろいろ話す中で最終判断を言い渡されたという流れです。1月16日ですね。
――では、12日の試合の時点ではこのようなことになるとは想定していなかったと。
樋口 でもそれまでの検診を受ける中で、これは無理じゃないかという雰囲気はちょっとあったんです。ただ、その時点では精密な診断がされていなかったのと、1月12日まではカードが出ていたんで、そこまでは出たいですと自分から言って、そのあとの16日の最終的な診断結果でした。
――医師の方からは、これ以上続けたらこのようになるということは提示されたんですか。それこそ、命にかかわるというようなことは…。
樋口 言われました。本当に亡くなられた方もいますし、動けなくなった方もいるので(具体的には)出したくないですけど、そこはハッキリと突きつけられましたね。
――それを聞いてからの判断は早かった?
樋口 はい、こういう状態だからとお医者さんに言われて、会社と話し合う中で樋口に試合はさせられない、手術をしても無理、保存療法でも無理、現状無理ってなったので、そこで「引退します!」と、スパッと言いました。ずっと検診を重ねてきた中で腹を決めていたというか、ある程度の想定はしていたんで。自分のプロレスができないなら、潔くやめようと思っていたからそこはハッキリと言えましたね。
――そこから3月23日の発表まで2ヵ月以上あったわけですが、その間は近しい人に報告をしていたんですか。
樋口 ちょっとずつは。ただ、29周年大会に向かって会社が盛り上がっていたし、その間にD GENERATIONS CUPも開催されていたので、よけいなことは言いたくないから黙っておこうと。なので、周りにはほとんど言わないようにしていましたね。
――坂口征夫さんが引退する時、鶴見青果市場に選手たちを集めて発表しましたが、そういう場は持ったんですか。
樋口 それは3月11日の新宿FACEでした。まあ、みんな驚いていましたねー。
――樋口選手のことですから、そういうくだけた感じで言ったんでしょうね。
樋口 最初はそうだったんですけど、雰囲気が変わって自分もグッとなっちゃいまして。「あとは試合に集中してくれ!」って締めました。
――ということはあの日、ハリマオの3人はその報告を受けたあとにKO-D6人タッグ挑戦を表明したんですね。3・22後楽園のタイトルマッチでも、明らかに開始前の吉村直巳選手の雰囲気がいつもと違っていましたし、石田有輝選手も試合後に泣いていて…樋口選手もセコンドとして試合を見守っていましたが、もうリングの上で試合をすることがないんだなと思いながら眺めていたんですか。
樋口 あの時は、まったくそうはならなかったです。3人に対して「いけいけ!」っていう感じだけでしたね。そういうことを思ったのは、メインのあとの締めで選手たちが出てきたじゃないですか。あの時、自分もエプロンに上がったんですけど、ふと後楽園を見回したんです。そこで初めて「もうすぐ終わりなんだよなあ…」って思いました。
――リング内に入らず、エプロンまでだったのは何か意図するものがあったんですか。
樋口 そこはハリマオのメンバーの中で、勝ってベルトを巻いた人間がリングの中にいるべきだっていう考えがあるんで。負けたのであれば、リングの中へ入るべきではないと彼らは入らなかった。だから自分もエプロンまででした。
――残り少ないことを思えば、入ることも許されると思われます。
樋口 そこは自分らのこだわりですね。ロープの中っていうのは、そういう場なんだっていう認識が強いんで。
――Eruptionの頃は樋口選手が若い立場で、坂口さんや赤井沙希さんがいたわけですが、ハリマオでは自分が吉村、石田という若い選手を引っ張る立場になりました。
樋口 うーん、引っ張れたかどうかでいうと、そんなに引っ張れていなかった気がします。吉村と始まって、石田が入って、吉村が欠場して中津(良太)さんが入ってきた形じゃないですか。その中で樋口に引っ張られるんじゃなく、自分たちで伸びたんだと思います。二人ともしっかりしているし、ちゃんと実力で上がってくれましたからね。
――それでも樋口選手の背中は見ていたと思うんです。
樋口 自分自身は目の前のことに必死だったんで、そうやって背中を見てついてきてくれたのであれば、ありがとうございますと言いたいです。
――4月5日のハリマオラストマッチ(吉村&石田&中津vs勝俣瞬馬&梅田公太&岩崎孝樹)は、自分自身が出ない樋口和貞引退試合のようなものですが、この6人はご自身による希望だったんですか。
樋口 そうです。最後だったら、これしかないなっていうのが自分の中にあったんで。
――ちゃんと、DNAが自分の中に残っていたんですね。
樋口 今もリング上で闘っている選手以外にも宮武(俊)さんや鈴木大さん、河村知哉さんもいて、その中で同期の1期生となると中津、勝俣、岩崎、梅田なんでそこは呼びたかったです。
――熊本在住の梅田選手も来てくれます。当日はどういう位置から見るんですかね。どちらかのセコンドにつくのか、それとも本部席から見守るのか。
樋口 ああ、考えていなかったです! どうしたらいいですか?
――自分で決めましょうよ。
樋口 うーん、当日決めます。ただ、今は基本、ハリマオなんでそっちにつくとは思いますけど。
――自分が出ない自分の引退試合というのも、不思議な感覚でしょうね。
樋口 当日も実感が湧かないかもしれないですよね。もちろん、自分自身で引退試合をやって終えたかったですけど、こうなってしまったんで…だったら自分の意志をわかってくれるハリマオと、あとは(DNA旗揚げ戦の)北沢タウンホールで試合をやった人たちでやってもらうのが一番いい形になります。
――事例としては、同じように首の負傷で引退を余儀なくされたプロレスリング・ノアの原田大輔選手が1分エキシビションという形で最後のリングに上がりました。そういう形も考えられたと思うんです。
樋口 あれは本当に、原田さんが凄いと思います。あの状態で、リングで最後のケジメをつけたんですから。でも、自分は試合ができないとなったらそれはイコール、自分の試合ができないことだから、それならリングに上がらないという考えなんで。いろいろなプロレスに対する考え方がありますけど、樋口和貞のプロレスができなかったら、それはもうリングへ上がるべきではないというのが、自分の中の正解だから…たぶん、この形でよかったんです。
――相撲は7年間在籍しましたが、プロレスは2014年11月のデビューから数えて11年4ヵ月続きました。
樋口 今思うと、早かったッスね。なんか、あっという間でした。もう、けっこう思い出せないことも多くなってきて、それぐらいジェットコースターに乗っていたようです。力士時代からプロレスラーになってもいろいろなことがありましたからね。
両国のメインに立てなかったことも
面白い、自分らしいって思える
――会見の質疑応答の中で、一番の思い出は初めてKO-D無差別級を戴冠した時と言われていました。
樋口 いっぱいある中でパッと最初に浮かんだのは、やっぱりそれだったので一番感慨深かったんだと思います。プライベートもリング上も含めてバシッ!と、ダーン!ってなったのが一発目のKO-Dでした。
――そこは擬音なんですね。
樋口 一番のズバーン!だった気がします。
――その時は“DDTの強さの象徴”という使命を背負いました。
樋口 それも口では強さの象徴ということを自分も言っていましたけど、そんな強くはないですからねえ。
――そんなことはないでしょう。
樋口 それでも必死こいてやった結果、そうやって思ってくれる人、見てくれた人がけっこういたんで、その点では役割を果たせたのかなと。
――時代ごとにDDTの強さの象徴はいたわけですが、あの時代の強いチャンピオンという形で樋口和貞の名前は永久に刻まれます。それはチャンピオンベルトのように落としたら終わりではなく、不変の価値として歴史に刻まれるものです。
樋口 いやー、恥ずかしいッスねえ。
――そこは照れずに誇りましょうよ! 自分が愛したDDTの歴史に、自分の名前が刻まれるんですよ。
樋口 残せたのは、よかったですよね…うん、よかった。ちゃんと自分がここにいたんだなって、何十年か経ってDDTを見たら思えるんでしょうね。
――好きで入ってきたDDTで、自分が描いていたものはどの程度達成できましたか。
樋口 プロレスをやりたかっただけ、DDTがいいなと思っただけなのでそこまで深く考えていなくて、やれること自体に幸せを感じられました。会見でも言いましたけど、いい夢を見させてもらったなっていう思いしかないです。
――そこまでプロレスを、DDTを好きになれたのはなぜだったんでしょう。
樋口 なんだろう…初めてプロレスを見た時にバビン!って来たんでしょうね。
――違う擬音ですね。
樋口 プロレスラーになりたいって言ったら、周りからは無理だって言われてコテンパンでしたよ。親も、周りの人も、中学と高校の先生も「なれるわけがないだろ!」って。
――その時点で背丈はあった方だったんですよね。
樋口 はい。それにもかかわらずなれると言ってくれる人は誰もいなかったんです。でも、それで何クソ!と思って柔道をやってある程度の結果を残したら相撲の話が来ているっていうんで、じゃあ、ちょっと入りますって。
――ちょっと入る。
樋口 相撲へ入る時に「プロレスラーになりたいんです」って言いましたからね。今ではバカだな!って思いますけど。失礼なガキですよ。
――紋別を出て東京にいくための理由づけにしたんでしょうね。
樋口 そうなんですよ。まだネットが今ほど普及していなくて、自分の高校時代ってiモードでパケット代がかかりすぎるっていう世界ですから、どうすればプロレスラーになれるかっていうのも調べられなくて。紋別は北海道の一番上で、それこそ北の果てみたいなところですからね。なりたいけど、どうすれば…というところにそういう話が来たものだから、当時の樋口青年はチャンスだと思ったんでしょう。ただ、なんやかんやで相撲は真面目にやりました。一応、幕下までいきましたし。それを思うと、ずっと綱渡り状態ではありましたけどここまでやれてよかったんですよね。
――会見で大社長(髙木三四郎)が「樋口は知り合いを通じて入ってきた」と明かしていました。そうだったんですね。
樋口 相撲関係の人ではなかったんですけど、たまたま髙木さんが知人という方がいて「じゃあ履歴書を送ってみれば?」ってつないでくださって。いろいろ選択肢があった中で、そういうつながりが偶然あったのもめぐり合いなんですけど。
――DNAとしてデビューした時点でけっこうなポジションを任されたじゃないですか。
樋口 体格があるというのもあったんでしょうけど、とにかく必死で何も考えられなかったです。逆にそれがよかったんでしょうね。デビューしてDDT本体にも出るようになって、半年で初めてのKO-D無差別級挑戦までいきましたけど、その間はただただ目の前のことをやるだけでした。
――相撲用語で「家賃が高い」ってあるじゃないですか(実力に見合わぬ番付に上がった結果、苦戦すること)。
樋口 ああ、家賃は高かったですね。今だったらまた違ったやり方もできたんでしょうけど、その頃は体格と勢いだけしかなかったですし。
――ただ、見る側からすればそれを感じさせなかったんですよね。樋口選手はデビューから最後まで上位陣の一角を担ったじゃないですか。これは、DDTの歴史においても稀有なケースです。竹下幸之介選手や上野勇希選手でも、デビュー時は負けが続いたのに対し、樋口選手はスタートから連戦連勝で、そのままキャリアを重ねることができたという。
樋口 それでも大事なところでは負けていますからね。実際、KO-D(無差別級)を獲るのに7年もかかりましたし。
――その1度目の戴冠前には右ヒザジン帯を切って、プロレスをやめようとも思いながら坂口さん、赤井さんに励まされて続けられました(相撲時代には左ヒザのジン帯も切っている)。
樋口 そうでした。あのお二人の言葉があったからKO-D無差別級までいけたんです。でも、やめたいと思った時は続けられて、今回はやめたいなんて思っていないのに続けられないというのも、面白い人生だって思います。
――そこは面白いと思えるんですね。無理しているのではなく。
樋口 無理してないッス。今はあっけらかんとしています。
――ある程度のやりきった感も持てているんですか。
樋口 100ではないですけど…そうですね、もうちょっとやりたかったっていうのはやっぱり残るんで、悔しい部分もありますけど現状、自分の力でやれることはやりきったって思えます。
――樋口和貞のプロレスができなくなったらやめると言われましたが、何歳ぐらいまでという想定でしたか。
樋口 年齢では考えていなかったですね。そこは体が続く限りという認識でした。あのスタイルができる体がいつまで続くかだったんで。
――キャリアを積めばスタイルをチェンジして現役を続けることもできると思われますが、それは望まなかった?
樋口 そうですね。おそらく、変えることもできるとは思うんですけど、それも違うなと思って。結果論ですけど、太く短くになるなっていう予感が自分の中でありました。
――いや、それこそバラエティー枠のセンスにもあふれているので、今回のケガがなかったらギアチェンジして長く続けることもできたのではと思うんです。
樋口 バラエティー枠は第一人者の方たちがいるじゃないですか。それにバラエティーをやるにはガッチリしたプロレスも必要であって皆さん、やる時はやる人たちですから。自分はやれってなった時にやれないですよ。だったらそれはもう、失礼な話なんで。
――今の言葉は真理を突いていて、刺さります。
樋口 DDTならではのあの価値観がわかっているからこそ、自分の体が動かなくなったらスタイルをチェンジしてやろうとは思わなかったです。
――あとは、やり残したことといえば両国国技館の結びの一番に立てなかった。
樋口 いや、これも面白いですよねー。全部、セミまでだったんですよ。自分がKO-D無差別級チャンピオンの時はなぜか両国でやらないというめぐり合わせで。
――1度目のチャンピオンの時は7月に獲りながら夏のビッグマッチが大田区総合体育館で、両国は翌年の夏でした。2度目も6月に獲って夏のビッグマッチがひがしんアリーナで、11月まで持ち続ければ王者としてメインに立てたのが、8月31日に上野選手に敗れてベルトを失うという。
樋口 話として、そんなのないじゃないですか。仮に自分がファンとしてDDTを見ていたら「そう来るのか!」って面白がったと思うんですよ。「また樋口は両国のメインに立てないのかー」みたいに。それがまた、自分らしいなって。上野もMAOも、クリスも経験しているのに、自分だけなんですよね。
――青木真也選手は少し立ち位置が違いますし、平田一喜選手にいたってはそういうものを超越した存在ですからこれも別とすると、樋口選手がKO-D無差別級を初戴冠した以降にチャンピオンになっている選手は全員両国のメインを経験しているんですよね。
樋口 だから、やっぱり相撲の神様が怒っているんですよ。「おまえはプロレスをやるために相撲へ入ったのか。フザケんな!」って。相撲は神事ですからね。いやあ、嫌われました、神様に。それが樋口和貞というプロレスラーを表す上で、非常にらしい話だと思います。
――そこで面白がれるところが…。
樋口 そういうのも含めてDDTが好きなんですよ。
――あと2ヵ月守り続ければ両国のメインに到達するというところで、それを阻止したのがデビュー戦の相手を務めた上野選手というのも、結果的には時代のバトンタッチになったんですよね。
樋口 それもまた樋口和貞らしいッスよね。点が線になってつながることで、物語になったわけじゃないですか。自分はそれを客観的に見て、いいストーリーになったなあって思っちゃうんですよね。
――団体に対する貢献度を思えば、もっと報われてほしかったと思います。
樋口 報われましたよ! メチャメチャ報われました。これは本音で思っています。小学6年生でプロレスラーを目指した時の樋口少年に対して胸を張れますもん。「おまえはいいプロレスラー人生を送れるようになるぞ。大変だし、最終的にはプロレスができなくなっちゃうけれど、いいプロレスと出逢えるからな」って言えます。