永井大貴とやるとなった時、
同じ土俵で勝負したいと思った
――29周年大会でタイトルマッチをおこなうことに関しては?
須見 どうなんでしょう…僕はファン時代、DDTを見ていなかったのでその歴史を意識することは普段もないんですけど。新日本プロレスさん、NOAHさん、DRAGONGATEさんは見ていたんですけど、DDTは三重(津市出身)に来ることがなかったから、見るタイミングがなかったんです。それでも自分でいこうと思ったのが18歳の時で(2021年12月18日)名古屋国際会議場までいきました。それが面白すぎて。
――どんな試合だったんですか。
須見 クロちゃんの電流爆破デスマッチ(ディーノ&飯野&今成夢人vs大仁田厚&髙木&クロちゃんのKO-D6人タッグ戦)でした。あとは竹下さん(KONOSUKE TAKESHITA)との無差別級前哨戦で、大日本の岡林裕二さんが出ていましたね。
――それが初体験だったら、まあ面白く感じたでしょうね。
須見 それを見てDDTにいこうと思ったんです。
――DRAGONGATEにいたのはそれよりも前だったんですか、あとだったんですか。
須見 前です。DRAGONGATEを落ちたのでDDTにいったんです。落ちた時は途方に暮れましたけど、それでもプロレスラーになることを諦めてはいなかったので、そのタイミングでDDTを見てここだ!ってなりました。
――D GENERATIONS CUP優勝戦の煽り映像でも触れられていましたが「体が小さいから飛べるのは当たり前。でもその先がない」というのが落ちた理由だったそうですね。
須見 はい。だからこそ、じゃあその先を見つけにいこうと思って、いろいろな団体を見た時に、DDTだったらその先を見つけられると思ったんです。
――先にDRAGONGATEに入ろうとしたのは、見ていたことが大きかった?
須見 そうです。地元にも来ていたし、GAORAで中継をやっているから見る機会が多かったんですよ。DRAGONGATEって、体が小さくても動きがよければプロレスラーになれるっていうイメージがあるじゃないですか。でも、その中で自分も小さいから埋もれちゃうんですよね。だったら逆にデカい人が多いところでやった方が、小さいことで目立つんじゃないかって考えたんです。
――逆転の発想ですね。
須見 僕はもともと、なりたいと思ったのがプロレスラーしかなかったんで、DRAGONGATEでダメだったからといって諦めるという選択肢はなかったんですよ。DRAGONGATEを落ちてDDTに入るまで半年ぐらいあったんですけど、自動車免許を取るためにアルバイトをしていたんです。でも、それが嫌で嫌で。DRAGONGATEはもちろん、練習でもなんでもキツかったんですけど、プロレスができない辛さと比べたら練習の辛さなんていくらでも我慢できるなって思って。そこでもう、好きなことをやった方が楽しいじゃん!ってなったんです。
――DRAGONGATEで同じ時期にいた選手となると誰になるんですか。
須見 神戸の合宿所に入っていたのが望月ジュニア、加藤良輝ですね。
――へぇー、いつかリングで再会できたらいいですね。
須見 はい、それを願っています!
――プロレスラーになることしか考えていなかったと言われましたが、入り口は誰だったんですか。
須見 プロレスを見始めた小学生の頃はマスクマンにあこがれて、獣神サンダー・ライガーさんと(4代目)タイガーマスクさんがカッコいいなって思っていました。あこがれたのはCIMAさん。いまだに映像を見ただけでシビレます。プロレスを見るようになった時点で、もうなりたいと思っていました。
――じゃあ、最初になりたいと思った夢を達成できたんですね。
須見 そうなりますね。警察官とか、消防士や医者、サッカー選手に野球選手とほかにもなりたいと思うことはあったんですけど、だいたい忘れちゃうんですよ。でも、プロレスラーになりたいという思いだけは忘れずにあったんです。にもかかわらず、中学1年の時点で130cmしかなかったし、運動神経も人よりなかったんでプロレスラーになるっていうことを恥ずかしくて言えなかったんですよね。それは高校に入ってからも同じだったんですが、進路を決めるとなった時に自問自答したらやっぱりプロレスラーになりたかった。それで、もう自分に嘘はつかないって決めて周りにも言うようにして、そこからトレーニングを始めたんです。
――器械体操というのは部活としてやっていたんですか。
須見 そうです。それもプロレスラーになるために始めたんですけど、周りには「いや、ちょっと動きたくて」とか「バク転ができたらカッコいいから」とか言ってごまかしていました。僕の中では、完全にプロレスラーになるための土台作りのつもりでした。
――空手もやっていたんですよね。
須見 小学2年から中3ぐらいまでやっていましたけど、それは親が習わせる形で。プロレスラーになるために始めたわけではなかったんですけど、僕がやっていた流派が寛水流空手だったので、それもあってプロレスを見始めたというのもありました。
――アントニオ猪木さんが水谷征夫さんと設立したあの寛水流空手!
須見 でも、高校でも空手を続けようとはならなかったんですよね、アクロバティックな方にあこがれたので。
――進路を決める時、親御さんには理解してもらえたんですか。
須見 一回、喧嘩しました。喧嘩というより、認められなかったんです。プロレスラーになると言い出した時に「なれるわけがないだろう」って言われて。それで体操の動画を見せたら「頑張っているな」とはなったんですけど「頑張っているからといってなれるような世界じゃないからな。まずは体を大きくしないと通用しないぞ」と。
――言っていることは的確です。
須見 そうなんですよ。体操場にあるダンベルとかでトレーニングしても僕は全然体の厚みもつかなくて。それで、ちゃんとしたトレーニングをやらないと大きくなれないし、それには普通に街のジムへいって挙げるだけじゃ無理だからと、部活はやめてパワーリフターやボディビルダーがいるジムにいくからって言ったら「どうせ堕落するから」って受け入れてくれなかったです。それで喧嘩になったんですよね。だけど、しばらく経って父と2人で話した時に「プロレスラーになると言って、失敗したらどうするんだ?」と言われて「絶対に失敗しないから!」と答えたら、そこからは何も言われなくなったんです。トレーニングを続けていくと、何も言わなくても体つきに出てくるじゃないですか。それを見て、頑張っているんだなって信用してくれたんだと思います。
――それは、無条件で認めるよりもそういう態度をとることで発奮させようとしたのかもしれないですね。
須見 ああ、そうですよね。頑張れよりも無理だって言われた方が、やってやる!ってなれたでしょうから。それで、高校を卒業して1ヵ月もしないうちに神戸へ入りました。7ヵ月ぐらいですね、いたのは。
――半年以上も続けば、あとはデビューを迎えるのみとはならないんですか。
須見 最初は16人いて、5人残ったんですけど、その中で僕だけが落とされましたね。
――落ちたのは、プロテストのことですか。
須見 プロテストの前に、練習生になるまでのハードルがあるんです。僕らは、肩書き的には新寮生。だから練習生にもなれなかったんです。
――厳しい世界ですねえ。
須見 でも落ちた時は、そんなに落ち込まなかったんです。冷静というか、落としたことを後悔させてやる、俺はもっとすげえレスラーになってやる!って思えたんですよね。
――DDTに入門し、また違う文化の中に足を踏み入れるわけですよね。
須見 最初は驚きました。東京まで出てくるから、まずは寮があって住めることでよかったって思ったんですけど、デビューした年の5月に入ったら、何もなかったんですよ。扉を開けたら、ベッドも洗濯機もコンロもない部屋で「今日からここで生活するんだ」と言われて。まだ新しい寮だったそうなんです。それで何もなかったという。あとから冷蔵庫や洗濯機も届きましたけど。あとは、寮から道場までとか新宿FACEや後楽園ホールに電車でいくのに乗り方がわからなかったんです。鉄道に関しては地元とまったく違いますから。それが最初のうちはキツかったですね。同じプロレス団体でこうも違うのかと思ったのは、神戸の時って一日がキッチリ決まっていたんです。朝8時に起きて、掃除、料理、練習、自由時間、また練習、就寝というように時間割があったのに対し、DDTはそういうのが何も決められていないんです。ちゃんと練習と興行に来れば、あとは自由だからっていう感じだったので、逆にそれ以外は何をやったらいいのかわからなかったですよね。とりあえずエニタイムフィットネスの契約をしにいって、住民票を移して…と、そっち系で疲れました。
――その時、一緒に住んでいたのは?
須見 正田さん、瑠希也さん、石田さんと僕と、もう2人いたんですけどやめちゃったんで。寮の雑用とかも、6人のうち気づいた者がやるという感じだったんで、こんなに自由でいいのかなと思っていましたね。
――デビュー後、須見選手の存在がクローズアップされたのは2022年3月1日の「ALL STAR Jr. FESTIVAL」で予告なく第0試合に登場したのと、昨年6月9日の「新日本×DDT一面対抗戦」でヤングライオンの永井大貴選手と感情むき出しの闘いを繰り広げた2つが大きかったと思われます。特に永井選手とのやり合いによって、それまでの器用に飛び技をこなす選手というイメージから脱却した気がします。
須見 永井大貴って、DDTにはいないタイプの選手じゃないですか。だからこそ、あそこでやるとなった時に俺は同じ土俵で勝負したいと思ったんですよ。ミサイルキックとかムーンサルトとか、そういうのはやりたくないって。逆にあいつがグラウンドや殴り合いに来たら、そこで自分は闘うんだって。空手をやっていたって言ったじゃないですか。最初は嫌いだったんです。なんで初対面の人を殴らないといけないんだ?って思っちゃって。それがいざ試合となって、相手に対しリスペクト心を持って闘ったら楽しかったんですよね。ああ、自分に足りなかったのはこれなんだと、そこで気づけたんです。だから、プロレスをやる上で闘いなんだということは常に意識してきました。
――ファイトスタイルによるイメージとは違う部分でありながら、ちゃんと持っていると。
須見 やっぱり闘いがないと、プロレスじゃないよなって自分は思うんですよね。派手なことをやればお客さんは盛り上がりますし、やっていることも凄いんでしょうけど、派手なことをするのはほかのジャンルでもいろいろあるじゃないですか。じゃあ、そうではないところですごいことって何ができるんだろうと考えた時に、それには闘いが必要なんだなと。プロレスラーになってから、自分はなんでCIMAさんにあこがれたんだろうと考えたことがあって、当時の映像を見返したらやっぱり闘いがすごかったんです。蹴りも殴り合いも、相手に対する思いも…そこで、デビューして自分に足りなかったものがわかった。それと同じ思いを、永井と闘うことでまた実感したんですよね。あの試合からファイトスタイルも変えて…見た目は変わっていないように映るかもしれないけど打撃も強くし、動きの面でも闘いのための動きっていうんですかね。だから今回のタイトルマッチも、佐々木大輔に対する強い、怖いという気持ちをはねのけるには、それが絶対に必要だと思っているんです。
――かなり影響を受けたんですね、永井戦に。
須見 受けましたね。改めて闘いを永井大貴が教えてくれました。
――DRAGONGATEでデビューできなかった人間が、新日本プロレスの選手とやる場が訪れるわけですからね。
須見 それを言ったら、DRAGONGATEを落ちた人間がジュニアの祭典に出られたんですからね。あれはもう、一周回って緊張しなかったですけど。ああいう場に出るのって、初めてだったじゃないですか。だから何をやっていいかわからない中やっていました。なのでもう一度、ああいう機会があったら今度は本戦に出たいですよね。永井ともそうですけど、点と点が線としてつながる日が来ると思うんです。僕もそうですけど、永井もその日を望んでいると思うし。D GENERATIONS興行の時に「金髪はどこにいった!?」って僕のことを探すコメントをしていたんで(2025年11月11日、新宿FACEに参戦し、瑠希也に勝利)、本当は僕とやりたかったのがわかりました。ツンデレだなって。
――そういう物語として先につながることを、一つひとつ重ねてきているのはいいことだと思います。
須見 そうですよね。その中で僕は、唯一無二のプロレスラーになりたいと思っているんです。もちろん、強いレスラーにもあこがれますけど「DDTには須見がいる」って言われるような…それはほかにはない色という意味で。他団体に出ても、常になんらかのインパクトを残せる須見和馬になります。
――サムライTVで須見選手のデビュー戦を放送した時、新人ゆえそれほどデータもないから「将来はスミに置けない選手になりますよ!」と私は実にテキトーなことをぶっこいてしまったんですが、本当に3年半弱でここまでのポジションに来たことを嬉しく思います。
須見 ハハハハッ。僕はスミからスミまで会場を盛り上げるようになりますから。