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2020-05-08

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・大麒麟将能編 相撲は理屈じゃないんだ――不完全燃焼の残り火[その4]

インテリは勝負もろい、というのは本当なのだろうか。大麒麟を見ていると、この説は正解のような気がしてならない。

※写真上=二所ノ関部屋の兄弟子大鵬(左)と支度部屋で
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】昭和38年秋場所9日目、大鵬との朝稽古で骨折とヒザの靭帯を断裂する大ケガを負った。2場所連続休場を余儀なくされ、無理を承知で出場した場所でも大敗。十両から幕下に転落し、幕内に返り咲くまで1年半もかかってしまう。ライバルたちに先を越されていったが、41年夏場所5日目、横綱初挑戦で柏戸を破ると流れが急転。初の三賞の殊勲賞に選出された――

理屈と現実の狭間に苦しみ自ら改名

 入門して間もなく、大麒麟はむさぼるように本を読み始めた。このことと、環境的に高校進学をあきらめざるを得なかったこととは、底辺でしっかりつながっていると言っていい。

 活字を目で追うことで、満たされぬ向学心を無意識のうちに癒やしていたのである。十両に上がり個室をもらえるようになると、ますます読書タイムは増え、「大相撲界一の読書家」という称号が完全に定着した。

 読む本も変化した。最初は推理小説の乱読だった。稽古や雑用などの合間を縫って、松本清張や高木彬光らの文庫本を手当り次第に読んだ。

 番付が上になり、少し余裕が出てくると、山岡荘八の「織田信長」や「徳川家康」、「太閤記」などの歴史物にのめり込み、郷土にゆかりの“葉隠れ”や宮本武蔵の「五輪書」、禅関係にも興味を持った。数年かかって30巻もある「昭和の天皇」も読破している。

 やがて読書を通じて身に付けた「ものごとをキチンと論理的に考える」という習慣が本職の相撲にも反映するようになった。しかしわずか直径4メートル55センチの土俵の中で、それこそあっという間に決着がつく相撲という人間くさい競技には、あまりにも理屈に合わないことが多すぎる。それを理屈で割り切ろうとしたところに、大麒麟の大きな無理があった。

 上位に上がるにつれて、大麒麟はだんだん理屈と現実の狭間に苦しめられた。泥沼に足を取られ、そんなに力の違わない琴櫻や北の富士、清國らライバルたちが次々に“大関取り”のチャンスをものにしていくのに、大麒麟だけはいつまでも大関の壁を打ち破れないのだ。

 ――アイツらに負けないぐらい、稽古もしているし体調管理もキチンとやってる。それなのに、どうしてオレだけ上がれないんだろう。

 また、大麒麟の悶々の日々は始まった。そして散々手こずった末にようやく大関に這い上がることができたのは、三役を連続11場所も務めた挙げ句の昭和45(1970)年九州場所のことだった。昇進する3場所前の夏場所、大麒麟は自分の判断で四股名をそれまでの「麒麟児」から「大麒麟」に改名している。この改名を巡って、

「自ら大の字をつけて名乗るとは、不遜だ」

 と周囲からは非難ごうごうだった。しかし、何度足踏みを繰り返している大麒麟にすれば、そんな是非を論じる以前にとにかくどうにかして自分というものを変えたかったのだ。精神的に、そういうところまで追い詰められていたのである。(続)

PROFILE
大麒麟将能◎本名・堤将能。昭和17年6月20日、佐賀県佐賀市出身。二所ノ関部屋。182cm140kg。昭和33年夏場所、本名の堤で初土俵。37年名古屋場所新十両、麒麟児に改名。38年秋場所新入幕。45年夏場所、大麒麟に改名。同年秋場所後、大関昇進。幕内通算58場所、473勝337敗49休。殊勲賞5回、技能賞4回。49年九州場所に引退し、年寄押尾川を襲名。50年、押尾川部屋を創設、関脇青葉城、益荒雄らを育てた。平成17年部屋を閉じ、18年6月退職。22年8月4日没、68歳。

『VANVAN相撲界』平成7年5月号掲載

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