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2020-04-28

【私の“奇跡の一枚” 連載67】 栃錦は決して立ち合いを 乱してなんかいない!

19世紀のフランスの天才詩人ジャン・コクトーは、日本を訪れた際、双葉山時代の国技館を訪れ、すっかり大相撲の世界に魅せられた。特にその立ち合いに共感し、世界的芸術家の感性をもって“バランスの奇跡!”と絶賛したのだった。

※写真上=最後の仕切りに入る際、腰を大きく割って両手を後方に跳ね上げるように構える形が何とも恰好よかった栃錦
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

理想は双葉山時代のそれだが……

 それほどさように、双葉山を象徴とする大相撲の正々堂々の立ち合いとその作法は、外国人が見ても、完成された神秘的なまでの芸術品だった。

 格闘技原初のスタンディングポジション?!スタイルから、互いに腰を割っての仕切りを繰り返しながら、両者がともに最善のスタートを切るという、人知と誠意の限りを尽くした相撲の立ち合いを編み出した力士たち。だからこそ制限時間に向かって両者が仕切り直しを繰り返すなか、満身が朱に染まっていく様子も、勝負ばかりでなく、ファンは楽しむことができた。

 双葉山時代に完成を見た、お互いがしっかり腰を割り、両手をついてスタートする立ち合いのスタイルは、まさしくこの競技の大基本であった。

 後年、立ち合い問題を振り返るとき、両手をつかずに立つことで土俵作法を乱したのは栃錦が元祖、という言い方をする人がいる。しかしそれは、栃若ファンの生き残りとしても明確に否定しておきたい。

名人は名人を知る

 このことについて、新国技館が開館した昭和60(1985)年1月号に掲載された、元大関増位山(父)の三保ケ関親方(当時)の文章(『澤田国秋のメモリアル・ギャラリー』があるので、同時代の相撲人の意見として、紹介しておきたい。 

『澤田国秋のメモリアル・ギャラリー』

 さる(59年)9月場所から協会は不退転の決意をもって立ち合いの正常化へと立ち上がった。そしてその場所は予想以上に立派な立ち合いがなされた。それが2場所目の九州になると待ったが多発した。これはやはり、相手が突っ掛けてきたらいつでも立つ、という気持ちに欠けるものがあるからだ。時間いっぱいになったらどんなことをしてでも立つ、ということであってほしい。

 また、横綱、大関ともなれば、下の相手が飛んでくるのを見て立ってやるのが貫禄というものだと思うのだが、そんなことはお構いなしに突っ込もうとする。同じ実力の大関同士ならいざ知らず、明らかに差のある相手に対してもそうなのが私には納得がいかない。相手を待ってやるだけの度量がほしい。

 そういった意味で一言しておきたいのは春日野理事長(元横綱栃錦)の現役時代の仕切りについてである。つまり横綱栃錦を、手をつかずに立って立ち合いを乱した元祖だと批判する向きがあるが、私はそれは絶対に違うと思う。

 栃錦の現役時代、私は勝負検査役(現在の審判委員)として土俵下から注意深くその勝負を見守っていたけれども、いつでも相手がつっかけて来たら立てる仕切りだったという意味で、それなりに納得できるものであった。ただ腰を割って仕切りに入る際、あまりに足を広げすぎるため、手をつきにくい重心になってしまってはいた。しかし同時に左右にパッと開いた両手によって、ほかの力士が土俵に両手をついているのと同じように、ピッと決めていたのである。

 それが証拠に、栃錦には待ったがなかったではないか。要するに相手に合わせていたのである。さあ、いつでも、どこからでも来いと待ち構えていたのである。

語り部=間 雅仁(『相撲』誌専属ライター)

月刊『相撲』平成29年7月号掲載

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