2009年6月15日、前日に大阪・Move Onアリーナで開催された大阪プロレスの大会のメインイベントでレフェリーを務め、カウント3を数えた直後に心臓発作を起こして市内の病院に救急搬送されたものの亡くなったテッド・タナベさん(享年46)のお墓参りが今年も11日におこなわれた。 テッドさんが眠る名古屋市内の寺院には、弟子である吉野恵悟レフェリーに声をかけられた3代目えべっさん、宮尾信次郎大阪プロレスリングアナ兼統括部長に加え、元みちのくプロレスリングアナウンサーの篠塚誠一郎氏が集まり、「あれからもう17年になるんですねえ……」と在りし日を偲んだ。
墓参りでもお笑い担当である菊タローが私用で欠席したにもかかわらず昔話で大いに盛り上がり、境内には例年通り笑い声が響き渡った。
ユニバーサル・プロレスで初コールし、旗揚げ2シリーズ目からみちプロに合流した篠塚氏は、今年も広島・因島から参列。身を包んでいたジャージーには、テッドさんが「この試合は何がなんでも私が裁きたい」と無理を申し出てTAKAみちのくvsザ・グレート・サスケ(2009年6月9日、KAIENTAI-DOJO後楽園ホール)をレフェリングした際に着用していたシャツの胸に染め抜かれていたのと同じデザインのみちプロの旧ロゴが縫い取られていた。
1993年3月にユニバーサル・プロレスから独立する形で旗揚げしたみちのくプロレス。ザ・グレート・サスケやスペル・デルフィンといった主力選手はすでにユニバーサルでデビューしていたものの、まだキャリア3年程度。リング上はともかく、運営面では素人の域を出なかった。それだけに業界のキャリアが長いテッドさんの存在は大きかった。篠塚氏も「右も左もわからなかったので、テッドさんのやり方についていく形でした」と振り返る。
すでに年号は平成に変わっていたとはいえ、まだ昭和のやり方が色濃く残る時代。1人で何役もこなし、営業でもポスター貼りや宣伝カーで回るのが主流。「テッドさんは現場主義というか、地図を見てどこにポスターを貼ればいいかを考え、実際に現場に行けば、ここは通学路になっているからとか、こっちに商店街があるからその流れに沿ってポスターを貼ろうとか、どの向きに貼れば目につきやすいかを考えて指示を出す感じでした」。それは国際プロレスや全日本プロレスといったメジャーといわれる団体、さらにFMWやパイオニア戦志というインディー団体の両方を経験したことから導き出された“実践的”な運営方法でもあった。
仕事を離れれば兄貴的な存在でもあった。当時、TAKAみちのく、米河彰大(のちのヨネ原人)、中島半蔵が盛岡組。そこにテッドさんと篠塚氏が加わって合宿所で共同生活をしていた。「あそこにテッドさんがいなかったら、ギスギスした関係になっていたかもしれませんね。愚痴の聞き役に回ってくれたり、相談役になってくれていたことで僕たちもガス抜きできてました」。
またテッドさんは、みちプロの一員でありながら積極的に他団体に出向いて試合を裁いていた。「テッドさんは“レフェリー外交”といってましたけど、他団体のスタッフと交流することでいろんなアイデアを交換したり、みちプロのリングに上げたら面白そうな選手を見つけたりして活性化できてました。それはインディー団体だからこそできたものでもありましたね」
テッドさん在籍時で一番思い出に残っているのは「IWGPジュニアヘビー級のタイトルマッチをやったことですね」と振り返る(サスケvs獅龍、1996年7月21日)。「過去に大分の荷揚町体育館とか“町”の付く体育館でのタイトルマッチはありましたけど、純粋に“町”でやったIWGP戦はほかにないでしょう。しかもみちプロの選手同士で。そもそもIWGPって、世界統一を目指して制定されたタイトルですしね。しかもコールしたのは自分ですから。一番痛快でしたし、みちのくのファンに対しても誇らしかったですね」と篠塚氏は笑った。
改めてテッドさんの功績を振り返り、「昭和のやり方のいいとこ取り、ダメな部分を削ぎ落としながら周囲の環境が変わるなかで実験的に新しい部分を取り入れていったのがみちプロだったと思いますね」と語った篠塚氏だが、それはテッドさんがいたからこそ築き上げられたものでもある。それでも「テッドさんからすればかなりブレーキを踏んでたと思いますよ」と篠塚氏。リミットを外していれば、みちプロはもっと破天荒な団体になっていたかもしれない。
<プロフィル>
てっど・たなべ 本名・田邊哲夫。1962年11月5日生まれ、愛知県名古屋市出身。16歳で国際プロレスのアルバイトとしてプロレス業界と接点を持つ。ジャパン女子でレフェリーデビュー。その後、全日本プロレス(プロレス振興会)、FMW、パイオニア戦志を経てユニバーサル・プロレスリングへ。みちのくプロレスではレフェリーだけでなく営業、リング屋など裏方として後輩を指導。また、みちプロに所属しながらインディー各団体に出向いて試合を裁き、“多団体男”と呼ばれるようになる。みちプロ退団後、名古屋に戻ってプロレス界から離れるも、スペル・デルフィンに請われて週末だけ通いで大阪プロレスでレフェリー復帰。2009年6月14日、メインイベントでカウント3を叩いた直後に心臓発作を起こして病院に救急搬送されるも、翌15日正午過ぎに死亡。46歳だった。
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