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2020-03-27

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・清國勝雄編 残暑の厳しい稽古場で遭遇した人生の指針[その4]

笑顔の裏に鎧あり。勝負に徹するしたたかさを失っては、この世界で大成しない。それを清國はこの同期生からイヤというほど教わったのだった。

※写真上=昭和41年夏場所初日、同期生横綱・大鵬を下手投げで初めて破る
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】入幕時すでに同期の大鵬は大横綱の名を欲しいままにしていた。入幕3場所目の昭和39年春場所前、大鵬から誘いの電話が頻繁に入るようになり、二所ノ関部屋へ稽古に出かけ胸を借りる。場所に入り4日目にいよいよ初対戦を迎えたが、完敗。大鵬に場所前の稽古で自分の弱点を徹底的に研究されていたことを知った――

12回目の対戦でようやく一矢報いる

 大鵬にどうやったらひと泡吹かすことができるのか。背中が凍りつくような思いの初対決以来、これが清國の最大の宿題となった。ただ、なんとか一矢報いたい。でも、肝心の付け入るスキを見出だせない。

 しかし、とうとうその日がやって来た。初対決からおよそ2年、12回目の顔合わせとなった昭和41(1966)年夏場所初日のことだ。この2場所前の稽古で右ヒザ内側の靭帯を痛め、入門以来初めて全休した。翌場所、復帰してみごと19回目の優勝を飾ったものの、まだ右ヒザは完治にほど遠い状態だった。

「こりゃ、チャンスだぞ」

 大鵬は元気がない、という情報を場所前に聞いた清國は、心の中でニヤリとした。頭に浮かんだ作戦はただ一つ。大きく動いて大鵬の動きの悪さを突くことだ。

 ――勝負だ。遠慮することなんかあるもんか。

 立ち合い、清國は激しく突っ張って左四つに持ち込み、大鵬が寄って来るところを左に回り込みながら思い切って下手投げを打った。すると、読みがずばり的中。大鵬はヒザをかばってついて来れず、バッタリと前に落ちたのだ。

「やったぞっ!」

 このとき、清國はすでに栃ノ海から3個、柏戸、佐田の山から1個ずつの計5個の金星を挙げていたが、同期生横綱に勝ったうれしさは格別。ヒザをついている大鵬を見詰めながら、笑みをかみ殺すのに必死だった。

 と同時に、相手の体調が万全でなかったことを思い、心の隅に引っ掛かるものも。しかしそのこだわりも千秋楽までだった。大鵬はこの初日の取りこぼしの後、平然と14連勝し、ものの見事に通算20回目の優勝をやってのけたのだ。これと対照的に、4場所ぶりに小結に昇進した清國は、好スタートを切ったにもかかわらず4勝11敗と大敗。再び平幕にUターンの憂き目にあった。

 ――うへーっ。上には上がいるって言うけど、この人は一体どうなっているんだい。オレなんか、どこまで行っても勝てねえや。

 清國は、改めて大鵬のすごさに舌を巻き、自分の無力さを振り返ってため息をついた。しかし、この脅威感が次の場所、稽古に打ち込む新たなエネルギー源になったのも確か。清國は、大鵬と通算33回対戦し、4勝(1不戦勝)しかできなかった。

 だが、その33回の対戦すべてが勉強になった。仲間こそ財産。清國は、すばらしい同期生に遭遇した幸せを神に感謝せずにはいられなかった。もっとも、そういう心境になったのは、このずっと後のことだったが。(続)

PROFILE
清國勝雄◎本名・佐藤忠雄。昭和16年11月20日、秋田県湯沢市出身。荒磯→伊勢ケ濱部屋。182cm134kg。昭和31年秋場所、若い國で初土俵。37年初場所梅ノ里、同年夏場所清國に改名。38年夏場所、新十両。同年九州場所新入幕。最高位大関。幕内通算62場所、506勝384敗31休。優勝1回、殊勲賞3回、技能賞4回。49年初場所に引退し、年寄楯山を襲名。52年、伊勢ケ濱部屋を継承し、幕内若瀬川らを育てた。平成18年11月、若藤に名跡交換後、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成7年4月号掲載

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