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2020-03-13

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・清國勝雄編 残暑の厳しい稽古場で遭遇した人生の指針[その2]

そんな昭和37(1962)年秋場所前、たまたま出稽古に来ていた朝日山部屋の若二瀬(のち小結)と何番も相手を変えず、2人だけでやる三番稽古をしていた清國は、ひょんな立ち合いから思わず頭から突っ込んだ。それまで腰を痛めたり、肩を亜脱臼したりしたことがあって、なかなかこの「頭から突っ込む」という立ち合いの基本ができなかったのである。

※写真上=昭和37年九州場所、新入幕を果たした清國
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】中学3年の夏休み、同郷の荒磯親方(元横綱照國、のち伊勢ケ濱)に誘われ入門。相撲が好きで入門したわけではなかった清國にとって、稽古は想像以上につらいものだった。6年あまり経ち、同期の大鵬は横綱に昇進、清國ははるか下の幕下で低迷。その間、弟弟子の淺瀬川にも追い抜かれ、悶々とした日々を送っていた――

稽古場で見つけた待望の出口

 するとどうだ。若二瀬がまるでワザとやってるみたいにゴロッと後ろにひっくり返ったのである。しかも、清國が心配していた頭の痛みや、腰の負担がまったくない。

「エッ」

 清國は、仰向けにひっくり返り、カエルのように手足をバタバタさせている若二瀬を見ながら、一瞬、この光景が信じられなかった。

 ――なんでこんなにかんたんに勝てるんだい。もしかすると、オレがずっと探し続けてきた相撲はこれかもしれないぞ。

 突然、目の前を深々と覆っていた霧が晴れ、待望の出口を見つけたような思いだった。そのあとも、この立ち合いが決まると若二瀬が面白いようにひっくり返るのだ。

 この秋場所は、淺瀬川が幕下筆頭で4勝し、十両昇進を決めた場所である。清國が身につまされるようなつらい“試練”の中で、必死に闘志をかき立て、西幕下7枚目で5勝(2敗)もしたのは、この切羽詰まった稽古の中でつかんだ、まだおぼろげな活路のせいだった。

 この日を境に、清國は“運ちゃん”を返上した。稽古でだんだん目が出るようになると相撲が面白くなり、自分から朝の3時、4時に起きてやるようになる。すると、着実に相撲が身に付き、さらに目が出る。こうして難攻不落だった幕下上位の壁が目に見えて薄くなってきたのだ。

 そして、38年夏場所、ついに清國も“万年幕下”の汚名を返上、淺瀬川に遅れること3場所で新入幕を果たして再び淺瀬川の上に。屈辱を脱皮の肥やしにして、わずか1年で兄弟子の面目を取り戻すことに成功したのである。

「後輩に追い越されるのは、そりゃあ、たまらないですよ。でも自分はああいうことがあったから、幕下を抜け出したとも言えます。稽古場で勝つにつれて、ようし、オレも関取になってやるという欲がどんどん湧いてきたし、やっぱり力士は稽古ですねえ」

 足掛け19年の現役生活を送り、49年初場所6日目、大関で引退した清國は、この世界で生きるヒントをつかんだ日のことをしみじみと振り返る。

 ――あきらめるのはいつでもできる。でも、あきらめちゃだめ。活路は必ずどこかにあるんだから。

 残暑の厳しい稽古場で、清國はその後の支えとなる人生の指針と遭遇したのだった。(続)

PROFILE
清國勝雄◎本名・佐藤忠雄。昭和16年11月20日、秋田県湯沢市出身。荒磯→伊勢ケ濱部屋。182cm134kg。昭和31年秋場所、若い國で初土俵。37年初場所梅ノ里、同年夏場所清國に改名。38年夏場所、新十両。同年九州場所新入幕。最高位大関。幕内通算62場所、506勝384敗31休。優勝1回、殊勲賞3回、技能賞4回。49年初場所に引退し、年寄楯山を襲名。52年、伊勢ケ濱部屋を継承し、幕内若瀬川らを育てた。平成18年11月、若藤に名跡交換後、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成7年4月号掲載

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