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2026-07-10

年末の「猪木、NWA世界初挑戦」まで「参入条件」に耐えたテレビ朝日の臥薪嘗胆【プロレス史あの日、あの時1969年7月2日/週刊プロレス】

ドリーvs猪木のNWA世界ヘビー級戦を報じた「プロレス&ボクシング」1970年1月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1969年7月2日
NETテレビ(現・テレビ朝日)が定期プロレス中継番組をスタート◎アントニオ猪木&吉村道明vsクルト&カール・フォン・スタイガー
 
去る5月27日、新日本プロレスが記者発表をおこない、それまでブシロードが持っていた新日本プロレスの株式を、テレビ朝日とサイバーエージェントに譲渡する契約が締結されたことをアナウンスした。これによって新日本プロレスはテレビ朝日の連結子会社となったわけだが、昭和から新日本を長く見てきたファン(私もその一人だが)からすると、今回の発表がビッグ・サプライズだったとの印象はない。株式保有によるオーナーではなかったにせよ、テレビ朝日は新日本(及び、後期日本プロレスの猪木映像)の過去60年近い映像コンテンツを所有し、テレビのみならず、あらゆるメディアで協力関係を構築してきたので、今回の株式譲渡については「収まるべきところに収まった」との印象を強く持った。

NETテレビ(現・テレビ朝日)が初めてプロレス中継を放送したのは、今から57年前の1969年7月2日(水曜日)だった。この日から毎週水曜日の夜9時~10時という枠で新番組「ワールドプロレスリング」が始まり、アントニオ猪木を番組の主役として、1954年から日本プロレスを中継してきた日本テレビ、1968年から国際プロレスを独占中継していたTBSテレビに次いで「テレビ・プロレスへの参入」を実現した。

ところが参入にあたり、NETには過酷な制限、禁止条項が課せられた。一番大きかったハードルは、当時の日本プロレスでインターナショナル選手権を持っていたエース・ジャイアント馬場の試合を「放映NG」とされたこと。これは日本テレビの意向を汲んだ日本プロレスが通達したもので、NETテレビとしては「断腸の思い」で合意を余儀なくされた。さらに“黄金の若鷲”のニックネームで人気急上昇中だった坂口征二(当時27歳)の試合と、「春の本場所」ワールドリーグ戦の公式戦の放送も禁止されたので、当時のNET中継を見ていた私は正直なところ「不憫だなあ。時間帯的に生中継が不可能だし、これではテレビ用の好カードが組みにくいだろうな」的な同情を禁じ得なかった。馬場と猪木が保持していたインターナショナル・タッグ戦も放送できなかったので、7月2日に始まった「週イチ放送」の中で「目玉商品」になり得たのは、当時アントニオ猪木&吉村道明組が保持していたアジアタッグ選手権と、“韓国の猛虎”大木金太郎が保持していたアジアヘビー級選手権だけ。それ以外の週は猪木の(ノンタイトルの)シングル戦、タッグ戦、6人タッグ戦を「漫然と」流すだけで、番組にストーリー性を持たせることは不可能だった。

この「不平等条件」に耐えること5カ月。NETが初めて日本プロレスからビッグマッチの放送権獲得に成功したのが、12月2日に大阪府立体育会館で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合(王者ドリー・ファンクJr対挑戦者・アントニオ猪木)だった。日本では1957年10月のルー・テーズ対力道山以来、12年ぶりのNWA世界戦開催ということで、当然、日本テレビも放送権を主張したが、馬場がドリーに挑戦する試合(12月3日、東京体育館)を中継することで、「猪木のほうはNETに譲渡してやろう」との妥協に至ったもの。NETテレビは「遂に獲得した宝物」とあって、このドリー・猪木戦(60分ノーフォール引き分け)を「大晦日(12月31日=水曜日)のレギュラー枠」として温存し、NHKの「紅白歌合戦」の裏番組としたのだから涙ぐましかった。さすがに4週間以上も経過した録画中継なので「賞味期限」的に苦しい感もあったが、それでも4.8%の視聴率を記録して、紅白歌合戦に「風穴」を開けることには成功。NETとしては「後発参入後」に膨張・累積していた鬱憤を、少しだけ晴らした気分だったろう。

流 智美

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