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2020-01-14

【私の“奇跡の一枚” 連載51】 「相撲協会映画部」の伝統と メディアの発達の真剣勝負

日本相撲協会は、行司・呼出し、床山といったいわゆる土俵の「裏方」さんだけではなく、出入り業者の皆さんのビジネスを超えた献身にも支えられて、今日があります。

※写真上=平成5年、『大相撲ダイジェスト』3000回記念企画で、修理した16ミリフィルムカメラ(アイモ)で曙の土俵入り風景を撮影する筆者。「ビデオには現在(いま)が写るが、フィルムには歴史が写る」を改めて実感した 

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

フィルム時代の『日本相撲協会映画部』

 それまで相撲とは無縁だった私が、広告代理店を経て大相撲の世界に関わらせていただいたのは昭和48(1973)年11月のことでした。戦前の双葉山全盛時代から相撲の記録映画を撮り続け、NET(現テレビ朝日)の人気番組『大相撲ダイジェスト』の撮影、制作をしていた「(株)日本相撲協会映画部」(昭和17年伊勢寅彦創立)に入社したのです。

 映画というとおり、当時の映像というとフィルムが全盛で、デリケートなフィルム相手に、撮影はおろか放送に間に合わせるための現像、輸送など、時間との勝負、そして出される企画、要望をいかにこなしていくかの知恵も絞らなくてはなりませんでした。さらに、その後のメディアの技術の進歩も日進月歩で、最新技術をこなすだけでも大変。その一方で、映像の保存、管理、再編成にも努めなければならず、私たちは常に走り続けてきたような気がします。

 媒体を大雑把に並べるだけでも、白黒ネガ→ポジ→マグネット→デジタルビデオ→ハイビジョン→ファイル化、ときているのですから大変でした。

 そんななか、昭和57年ごろ、ダイジェスト放送用に、記録用のフィルムからコマ伸ばしをして、スロー撮影をしたものに換える機械を、高いお金をかけて作ったりしたこともありました。映像過渡期の時代のいい思い出の一つです。

時代が変わっても大相撲の魅力は不滅

 私はこの2月末をもって無事停年を迎えさせていただきましたが、これまでの43年間の映画部(平成8年協会広報部に編入)生活を振り返って、伝統ある大相撲に関われたことを、本当に幸せに思います。普通の方にはなかなかできない、いろいろな方に注目される仕事を与えられて感謝しています。これから先もこの日本人の心に響く大相撲という基本は変わらないでしょうが、世の中と同様、昭和の昔とはやはり変わってきているのは事実です。

 力士の気質も違えば、取り口、所作も違ってきています。変わらぬものはその迫力と、毎場所のように生まれるドラマです。相撲場の大歓声の中での裸と裸の激突、その場所の力士、その時の力士が生み出す感動――は、何物にも代え難く、永遠に不滅だと思います。カメラマンとして正面土俵の真下から勝負を見つめ続けてきた(カメラの巨大化、映像の精密化によって位置は徐々に後退してきましたが)私のいつわらぬ思いです。

語り部=宇田川博(日本相撲協会 広報・情報管理室 映像制作 室長代理=平成28年2月停年)

月刊『相撲』平成28年3月号掲載

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