close

2026-07-24

新日史上初の「猪木全休シリーズ」を乗り切った異常人気【プロレス史あの日、あの時1982年7月16日~8月5日/週刊プロレス】

タイガーvsハートのWWFジュニア戦を報じた「プロレス」1982年9月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

全ての画像を見る
1982年7月16日~8月5日
新日本プロレス「第2次サマー・ファイト・シリーズ」
 
1972年3月の新日本プロレス旗揚げ以来、総帥であるアントニオ猪木がケガのため、あるいはNWA総会に出席のために、シリーズ中の興行を幾つか欠場することはあったが、開幕戦から最終戦まで、「全興行を休む」というケースは、本稿の「第2次サマー・ファイト・シリーズ」が初めてだった。4月に手術した両ヒザの回復がおもわしくなく、また同時期に症状が重くなった糖尿病のダブルパンチで「欠場のやむなき」に至ったものだが、営業部隊の苦労(切符販売)は並大抵のものではなかったという。21日間のシリーズのうち、19興行で埋められたのだから「結果オーライ」で難関を乗り切った形になったが、名古屋の愛知県体育館、蔵前国技館の2大会場をはじめ大半の会場が満員、超満員で埋まったのは、残留部隊のリーダーだった藤波辰巳(現・辰爾)の奮闘もさることながら、当時の「タイガーマスク異常人気」に因るところが大きい。

参加外国人メンバー(7人)の中に、ダイナマイト・キッドとブレット・ハートがいたことで、シリーズはタイガーマスクとキッド&ハートの対戦が牽引した。開幕戦はテレビ生中継されたが、木村健吾と組んだタイガーはいきなり初戦からキッド&ハートと激突(セミファイナル)。木村にとって、B・ハートは2年前(1980年)7月に同じ福岡でNWAインタージュニア王座を争い勝った相性の良い相手。それだけに日本組の快勝が期待されたが、ハートの成長カーブは予想以上の急角度を描いていた。ペンデュラム式バックブリーカーとジャンプしてのパイルドライバーで木村をKO寸前に追い込んだハートは、キッドのダイビング・ヘッドバットを呼び込んで鮮やかなスリーカウントを奪い快勝(13分59秒)。タイガーマスクはプランチャを場外で受け止められて、鉄柵に背骨を打ちつけてダウンしており、木村を見殺した形になってしまった。

タイガーが敗れはしたものの、この白熱の一戦が翌日からのシリーズ人気に火をつけた。テレビ(「ワールドプロレスリング」)の放送カードを見るだけで明白なのだが、翌週(23日)がタイガーとキッドのシングル(ノンタイトル)、30日がタイガー対ハート(WWFジュニアヘビー級選手権=キッドがハートのセコンドとして介入)、6日がタイガー対キッド(WWFジュニアヘビー級選手権)、13日がタイガー&星野対キッド&ハート、20日がタイガー&藤波&木村対キッド&ハート&グレッグ・バレンタインと、なんと「6週間すべてが、タイガー対キッド&ハート」で埋めつくされている。こんな例は長いテレビ・プロレス史上で初めてのことで、もちろん、このあとも存在していない。タイガーとキッド(&ハート)のカードが、いかに視聴率上昇に貢献していたかの何よりの証拠であり、これなくして「猪木全休」をカバーすることは絶対に出来なかった。このあともタイガーマスクとダイナマイト・キッドのライバル関係は翌年の4月まで「テンションを落とすことなく」継続したが、「6週間連続でゴールデンタイムに放送された」という異常熱気はこのときだけで、この夏の抗争をベストにランクするマニアは多い。裏番組には日本テレビの看板刑事ドラマ「太陽にほえろ!」がド-ンと君臨していた時代だが、このあたりからテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」が猛追し、「抜きつ、抜かれつ」の壮絶な視聴率競争が始まっていった。

流 智美

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事