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2026-07-31

「生涯唯一の敗戦」が「タイガーマスクのMSG初登場」に直結【プロレス史あの日、あの時1982年7月23日/週刊プロレス】

MSGでおこなわれたタイガーvsキッドのWWFジュニア戦を報じた「プロレス」1982年10月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1982年7月23日
タイガーマスクvsダイナマイト・キッド@金沢・石川県産業展示場3号館
 
本稿の試合は初代タイガーマスクがキャリアの中で喫した「唯一の黒星」として余りにも有名で、反則に因る勝利ではあったが、逆にダイナマイト・キッドにとっては生涯最高の勲章として残っている(この金沢市における一戦には、本誌のカメラマンが派遣されておらず、試合写真は残っていない)。

特筆すべきは、この一戦が当日のトリ、メインイベントの第2試合として組まれたことだ。

当夜はテレビ(「ワールドプロレスリング」)生中継があり、ダブルメインとして藤波辰巳(現・辰爾)対ディック・マードックというヘビー級の好カードも組まれていただけに「どちらがトリになるのか?」が注目されたが、マッチメイクを担当していた坂口征二は勇断を下して、ジュニアヘビー級の対戦を最後に組んだ。

当然のことながら、藤波とマードックには「面白くない感情」が渦巻いただろう。いくらタイガーマスクがブームを巻き起こしているとはいえ、「格を考慮し、試合順はヘビー級を重視すべし(あとに組む)」というのが当時の常識だったからだ。当時の東京スポーツ新聞(7月25日付)記事にも「異例のトリ抜テキ」という見出しがあるが、タイガーマスクにとっては、余計なプレッシャーが加算された形になった。場外乱闘の際、タックルに来たキッドをショルダー・スルーでフェンス外に放り投げての「アクシデント負け」だっただけに、まさに「痛恨のトリ」になってしまった。

とはいえ、試合内容は文句ナシ、最高レベルの名勝負となった。特に試合後半にキッドが放ったバックドロップは迫力満点で、ほぼ垂直に後頭部を叩きつけられたタイガーは半失神し、場内には悲鳴が飛びかった。ツームストーン・ドライバーで止めを刺されていたらスリーカウントは不可避だったが、余りにも急角度のためにキッドも後頭部を打っていたことが幸いし、タイガーはピンフォールを免れている。新間営業本部長は、タイガー対キッド、藤波対マードックの2試合をビデオ・カセットに収録してニューヨークのビンス・マクマホン(シニア)に郵送し、そのテープを見たマクマホンは、8月30日のMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)大会に藤波、タイガーマスク、キッドの3人を招聘することを決定した。新間氏にとっては、タイガーマスクのMSGデビューは「仕掛け人としての悲願」。年初からマクマホンに懇願していた案件が、ようやく結実。次期「ブラディ・ファイト・シリーズ」の前半欠場を余儀なくされる「犠牲」を払ってまでも実行したのだから、これも「迷わず行けよ、行けばわかるさ」の典型例と言える。

8月30日、MSGで実現したタイガー対キッドの模様は、ノーカットで残っているので御記憶にある読者が多いだろう。最初は奇妙な虎の覆面をかぶった小さな選手を「小馬鹿にしていた」観客が、試合が進むにつれて呆然とリング上の一挙一投足にアングリと口を開けて、フィニッシュにラウンディング・ボディープレスが決まった瞬間には2万2800人の全観客がスタンディング・オベーションで二人の名勝負を賞賛した。「タイガーマスク革命」が、太平洋を越えて全米にも根を下ろした記念すべき瞬間だった。

そう考えると、本稿の金沢における対戦が、結果として「タイガーマスクのMSG初登場に繋がる序曲」になったと思う。マクマホン・シニアがタイガーマスクの相手としてキッドを選んだのも、当然だったろう。日本マットを沸かせたカードが、そのままアメリカに「直輸入」されたケースは以前にもあったが(たとえばストロング小林対ビル・ロビンソン、藤波対チャボ・ゲレロ、ジャイアント馬場対ブッチャーなど)、最高傑作は間違いなくこのカードだった。

流 智美

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