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2026-08-07

藤波辰巳と「もうひとつの名勝負数え唄」を期待された“暴走狼”アドリアン・アドニスの不運【プロレス史あの日、あの時1983年7月29日/週刊プロレス】

「プロレス」1982年9月号に掲載されたアドニスのインタビュー(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1983年7月29日
藤波辰巳vsアドリアン・アドニス@富山市体育館
 
“暴走狼”のニックネームで1980年代の新日本プロレスを大いに盛り上げたアドリアン・アドニスは、デビュー当初は「地味なガチンコ野郎」としてローカル・テリトリーのポリスマン(素人の道場破り的な存在を懲らしめる役割)からスタートしている。1953年9月15日生まれだから、歳も生年月日も藤波辰巳(現・辰爾)とほぼ一緒。高校時代にアマレスで鳴らしたアドニスは、トロントにいた名伯楽のフレッド・アトキンス(ジャイアント馬場の師匠)に弟子入りして徹底的にサブミッションをマスターし、74年にバンクーバーでデビューした(当時のリングネームはキース・フランクス)。専門雑誌を通じて日本にも名前が知れてきたのは1977年3月で、ロディ・パイパーとのコンビでビクター・リベラ&チャボ・ゲレロを破りロサンゼルス地区のアメリカス・タッグ王座を獲得した試合が最初のブレイクとなる。以降、テキサス州アマリロや西海岸の主要マーケットを転々としたあと、80年にバーン・ガニアのスカウトでAWA地区に転戦。ジェシー・ベンチュラとのタッグで7月にAWA世界タッグ王座を獲得してからは、トップレスラーとして全米各地のプロモーターから注目される存在になった。

新日本、全日本の両団体が招聘の手を伸ばしたが、獲得したのは新日本。1982年夏の「第2次サマー・ファイト・シリーズ」に28歳で初来日。シリーズを通して日本人選手を相手にワンフォールも許さず、早くも強豪ぶりを誇示して「エース・ガイジン」の一角に食い込んだ。その後も半年に一回の割合で招聘され、83年3月の3度目の来日では、ボブ・オートンJrとのコンビ結成時に革命的なツープラトン戦法を披露して天才ぶりを如何なく発揮した。

本稿の一戦は4度目の来日となった83年夏の大一番で、同じ歳のライバル・藤波を相手にメインの60分1本勝負で対戦。アドニスはここまでノーフォールで無敵の快進撃を継続しており、藤波との一騎打ちはシリーズの山場となった。アドニスは太めの体型だったがスタミナは抜群で、リズムよく藤波の攻撃を阻んで攻勢を維持。ブルドッギング・ヘッドロックとマンハッタン・ドロップで勝負に出たが藤波の驚異的な粘りでフォールを奪えず、逆にコブラツイストからの雪崩式ブレーンバスターで大ピンチ。最後は場外乱闘に持ち込んで引き分けとなり、金星奪取には至っていない。

このあとも定期的に新日本マットに招聘されて猪木、藤波を相手に巧者ぶりを発揮したが、1988年5月の来日(11度目)が最後となった。同年7月4日、カナダのニューファウンドランドをサーキット中に交通事故に遭遇し、34歳の若さで急死という不運に見舞われた(同乗していたパット・ケリーとデイブ・マッキグニーも即死)。奇しくも同じ88年5月には、ライバルの藤波が“飛龍革命”を宣言して初のIWGPヘビー級王座を奪取。9月シリーズの来日ではIWGP王座を懸けてのアドニス戦が予定されていたが、このアクシデントによって、二度と“暴走狼”の洗練されたファイトを見ることは叶わなかった。

1990年代に入ってから、アメリカ&カナダでは戦前から続いてきた「テリトリー・システム」が完全崩壊し、車による都市間の移動も減ったことで、プロレスラーの交通事故は急減。今となっては、アドニスは「交通事故で死去した最後の大物レスラー」になってしまった感がある。健在だったら、同じ72歳の藤波に対抗して現役を続行していたかもしれない。改めて伝説の名選手に合掌。

流 智美

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