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2019-07-26

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・益荒雄広生編 パッと咲いてパッと散った…“白い閃光”――[その1]

真っ青な秋空に白い紙を引き千切ったような雲が一つ、のんびりと浮かんでいる。福岡市からクルマで1時間足らずのところにある田川郡糸田町出身の益荒雄(初土俵のときの四股名は本名の手島。昭和58年名古屋場所、十両昇進と同時に益荒雄と改名。ここでは便宜上、益荒雄で統一する)にとっては、これが力士になって8度目の故郷の空だった。

※写真上=軽量ながらスピーディーな動きで、一時は大関候補と期待された益荒雄
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

能力の限界を通告

 空いっぱいにあふれているまばゆい陽の光も、ほのかに漂っている空気の甘い匂いも、胸を熱くして上京した8年前とまるで変わっていない。しかし、それを眺める益荒雄の気持ちには天と地ほどの違いがあった。

 ――このままじゃ、どうせオレはダメ。どこからいったって幕内で通じそうもないもの。この場所が終わったときには、また大負けして、みんなに、やっぱりアイツは十両暮らしがいいところか、と冷ややかな目で見られるんだろうなあ。せっかくのご当所だというのに、ただ恥の上塗りをするだけ。ああ、一体どうすればいいんだい――。

 周りのみんなが目をギラギラさせて上を目指しているときに、お前はここまでだ、これ以上は無理、と一人だけ能力の限界を通告されることほど残酷なことはない。それもやっと25歳になったばかりというやる気盛りに。

 このときに益荒雄がまさにそれだった。前の場所、十両西2枚目で9勝し、お国入りを4度目の入幕で飾ったものの、たった1場所で十両に滑り落ちた過去3度と同じように、勝ち越せるメドは全然立っていなかったのである。8年前、両親の猛反対をはねのけ、大相撲界に飛び込んだときの身を焦がすような情熱が無性に懐かしかった。

「このまま高校を出て、平凡な人生を送るのは絶対イヤだ。どうせ同じ一生なら、みんなと変わった人生を過ごしたいんだ」

 益荒雄が飯塚高校を2年で中退して押尾川部屋に入門、初土俵を踏んだのは昭和54(1979)年春場所のことである。2歳年下の横綱双羽黒や北勝海(現八角親方ら昭和38年生まれの、いわゆる“花のサンパチ組”)と一緒だった。ずっと柔道や少林寺拳法などの格闘技をやっており、腕には少々自信があったのだ。

 しかしいざ入門してみると、この柔道歴がかえって邪魔に。相撲と柔道では、ワザをかけるときの重心が全然違い、腰高の益荒雄は、みんなから面白いように吊り上げられたりぶん投げられたりし、入門早々すっかり自信を喪失してしまったのだ。

 しかも身長は185センチとまずまずだったが、体重が新弟子検査のときでやっと81キロ。これを三ケタの100キロ台に乗せるのに、それから5年近くもかかっている。

「おーい、ガイコツ」

 十両入りするまで、このおどろおどろした呼び名が益荒雄のニックネームだった。それぐらいそのソップぶりは際立っていたのである。

 こんな益荒雄を支えていたのは、どんなにたたきつけられても起き上がりこぼしのように向かっていく執念と根性であった。(続)

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