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2019-07-19

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・北天佑勝彦編 一番うれしかった会心の相撲、最高の恩返し――[その3]

大相撲界は、ほおをつねりたくなるような不思議に満ちあふれている。末は横綱間違いなし、と誰もが予想した北天佑がとうとう大関止まりで終わってしまったこともその一つだ。“大関取り”が懸かった昭和58(1983)年の夏場所と、60年名古屋場所の2度も優勝し、22歳の若さで大関に駆け上がったこの大器がどうして横綱になれなかったのか。

※写真上=大関昇進から2年後の昭和60年名古屋場所、2度目の優勝を果たした
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】偉大な兄弟子・横綱北の湖の稽古台を務め、成果は着実に身に付いていった。大関昇進後の昭和59年夏場所、その北の湖が2年半ぶりに優勝のチャンスをつかんだとき、追いすがる隆の里を破り、兄弟子の援護射撃を果たす――

迷走と病が横綱昇進を阻む

「理由は2つ。迷いと、病気です。大関になると、周りからどうしても、大関相撲を、と注文されるんですよ。でも、どれが大関相撲で、どれが横綱相撲なのか。誰も具体的には分かっていないんですね。自分もこうではないか、ああではないか、といろいろやってるうちに、とうとうワケが分からなくなってしまい、気が付いたときには肝心な勢いを失っていたんですよ。2度目の優勝のちょうど1年後の昭和61(1986)年名古屋場所前、糖尿病になったのも痛かったですね。なにしろあっという間に10キロも痩せてしまいましたから。あのときは、朝起きて自分の体を見るのが怖かったなあ。このあと心臓や、肝臓まで悪くなり、あっちの病院がいいと聞いては行き、このクスリが効くと聞いては飲み、もう頭が痛くなるぐらいいろんなことをやりました。結局、どれもダメでしたけどね」

 と二十山親方(元大関北天佑)は苦笑いする。

 北天佑は、三段目のころまで、毎日、その日の自分の相撲をノートにこと細かく書いていた。また、毎月のお金の出入りをチェックする小遣い帳をつけている力士としても有名だった。もしかするとこの几帳面さが災いしたのかもしれない。

 大関在位44場所は、史上5番目のロングラン記録。昇進があまりにも早かったのと、周りの期待が大きかったためになかなか自分に見切りをつけられなかったのがその理由か。

 引退して4年目の平成6年7月、二十山親方は独立し、大相撲界49番目の部屋を興した。周囲の期待にも応えられなかった心の傷がようやく癒え、若い弟子たちを育てて、その手に自分の果たせなかった夢を託す決意が芽生えてきたのである(終。次回からは関脇・益荒雄広生編です)

PROFILE
北天佑勝彦◎本名・千葉勝彦。昭和35年8月8日、北海道室蘭市出身。三保ケ関部屋。183cm139kg。昭和51年春場所、千葉で初土俵。53年春場所、北天佑に改名。55年夏場所新十両、同年九州場所新入幕。58年夏場所、初優勝を果たすと、場所後に大関昇進。幕内通算60場所、513勝335敗52休。優勝2回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞1回。平成2年秋場所7日目に引退し、年寄二十山を襲名、分家独立し二十山部屋を創設。幕内白露山を育てるも、18年6月23日、45歳の若さで没。

『VANVAN相撲界』平成6年10月号掲載

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