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2019-07-09

私の“奇跡の一枚” 連載23 貴ノ花との新序一番出世

私は現在、相撲教習所で相撲甚句の講師をさせていただいている。命を賜ったのが平成12(2000)年4月だから、現在ではほとんどの関取衆が教え子ということになる。

※写真上=昭和40年夏場所8日目、一番出世を終えて花道を引き揚げる新弟子たち。左の紋付姿で背を向けているのが、実弟・花田の晴れ姿にちょっぴりテレている元初代若乃花の二子山親方。視線を送りつつ進んでいるのが貴ノ花。それに続いているのが国錦の佐藤氏。蔵前国技館の桟敷枡が、材木で組まれているのも時代を表していて懐かしい
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

相撲甚句あればこそ

 その昔は、しがない元幕下力士であった私が、ウソでも先生と呼ばれる立場になれたのは、ひとえに現役時代から多くの皆さんにかわいがっていただいたご縁による。

 10年にわたる現役時代、人一倍好奇心が旺盛だった私は、生まれ故郷が民謡どころの秋田県だったこともあって、入門3年目ごろから相撲甚句に手を染め、さらに進んで初っ切りも演じるようになった。そのことが、角界内外での知り合いを増やし、引退後までお付き合いを続けさせていただくきっかけになり、今日に至っている。

大関貴ノ花と同期生

 私は昭和40(1965)年正月、のんびりした秋田の片いなかから力士を目指して上京、元横綱照國の伊勢ケ濱部屋の門をたたいた。しかし、1月、3月と体重不足で新弟子検査に受からず、ようやく初土俵を踏めたのは5月だった。

 この場所の新弟子検査合格者、いわゆる同期生は合計45人。その中になんと“土俵の鬼”と呼ばれた初代若乃花(当時二子山親方)の弟がいた。オリンピック候補の呼び声が高い花田満という水泳(バタフライ)の選手がいるということは、かねがね新聞等で知っていたが、その彼が同じ検査会場にいたので、私はびっくりしてしまった。

 のち角界最高の人気者となった大関貴ノ花関(のち藤島→二子山親方)と私の交友(こんな言い方をするのもおこがましいが)はこうして始まった。

 日本中のファンの心を揺さぶった貴ノ花関は、あれだけ華やかな雰囲気を漂わせながらも、物静かで真っ正直な、心ある人で、それは昔から変わらなかった。教習所時代は稽古後に小遣い銭もない新弟子仲間にアイスクリームを差し入れたりしたことから始まって、同期生の出世や人生の節目に気遣いを忘れぬあったかい人だった。

 天下の大関と幕下ではどこから見ても月とすっぽんで接点がないが、私は相撲甚句もやっていたおかげで、余興担当として、“角界のプリンス”と言われたスターとセットで、数々のイベントで行動をともにする機会を数多く持たせてもらった。

 横綱輪島関と親しくさせてもらったのも、その親友貴ノ花関とのご縁である。

すべてはここから……

 引退後も相撲甚句を続けていたおかげで、角界と縁が切れることがなかった。そのため二子山親方も私を杉並の自宅に招待してくれたり、祝い事の折には忙しい中を駆けつけてくれた。また両国国技館の近くにある私の隅田川相撲甚句会の教場を時折訪れ、「今度オレ、理事になったんだよ」といった報告やら、雑談をするほど心許してくれたのだった。

 協会理事の間で相撲教習所の学科に相撲甚句採用の話が持ち上がったとき、皆さんが講師として自然に私の名前を挙げてくださったのも、現役時代からの長いお付き合いの然らしめたものだった。二子山親方も当然その中にいた。

 そんなありがたい付き合いの始まりを鮮やかに象徴し、約半世紀後の今に至るまで私に勇気を与えてくれているのが、世紀の大スターを追ったカメラに、私がたまたま写り込んだ(私も一番出世だったんですぞ!)この写真なのである。

語り部=元相撲教習所相撲甚句講師・国錦耕次郎
(本名・佐藤耕次郎、元幕下、伊勢ケ濱部屋)
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成25年12月号掲載

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