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2019-06-28

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・逆鉾伸重編 屈辱こそは勝負の世界における飛躍の秘薬――[その3]

この逆鉾のことを語るとき、避けて通れないのが師匠でもある父(先代井筒親方、元関脇鶴ケ嶺)と長兄の鶴ノ富士、末弟の寺尾(現錣山親方)との関係である。逆鉾が入門したとき、鶴ノ富士はすでに幕下だった。寺尾が入門してきたとき、逆鉾は三段目である。

※写真上=平成元年初場所、4度目の技能賞。左の実弟・寺尾は殊勲賞と兄弟同時三賞を受賞した
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】母の死で、一段と稽古にも実が入るようになった逆鉾は、幕下デビュー戦で自分より後に入門した元学生横綱に完敗。幕下の水にも慣れ自信もふくらんだ4場所後、同じ相手にまたしても敗れてしまう。この一番の悔しさが、十両入りの機となった――

うれしかった兄弟同時関脇

 かつて父はゼロ戦乗り志願だったこともあって、上下、内外のけじめに厳しく、自分がスカウトしてきた弟子よりも息子たちを優遇する、という身びいきを異常なぐらい嫌った。

「ぶん殴るのは、自分たちが真っ先、ホメるのは一番最後、という指導法ですよ。いや、ホメることは辞めるまで一度もなかったな。とにかく後援会なども、周りの人たちが『つくりましょう』とお膳立てしても、『いや、そういう心遣いは一切結構です。そのお気持ちがあるんでしたら、どうぞほかの弟子たちを応援してください』と言って、片っ端から断っちゃうんですから。だから、自分たち兄弟たちだけは個人後援会もありませんでしたし、激励会も、新十両のときを除いて開いてもらったことがありませんでした」

 と井筒親方はため息をつく。

 この父の潔癖さや、母を早くなくしたことが3兄弟の結束を固くしたのかもしれない。ペッペ、チャキ、アビの仲の良さは、大相撲界でも有名だった。ただし、廻しを締めると、逆に何かにつけて比較される一番身近なライバルだけに目の色が変わった。

「兄弟だから、歯止めが利かないことってあるでしょう。自分の場合は、兄貴と稽古するときがそうでしたねえ。相撲っぷりが、向こうは突っ張りだし、こっちは四つと対照的でしょう。立ち合いに、よく兄貴の顔が自分の顔に当たるんですよ。すると、つい、こっちもカッとなってダメを押したり、最後はいつもケンカ腰でしたね。だから、番付が逆転し、こっちが上になってからは稽古しなくなりました。寺尾とやるときは、何と言っても弟ですし、最後までこっちのほうが分が良かったこともあって、兄貴とやるときのようにムキになることはなかったですね。たとえ突っ張りが顔に入っても、まあ、しょうがないや、と余り痛くないフリをしたりして」

 と、井筒親方は3兄弟の真ん中の複雑かつ微妙な心境をこう説明する。

 こんな逆鉾が真新しい番付を見て、

「やったあ」

 と思わず飛び上がったのは平成元(1989)年春場所のことだった。この場所、逆鉾は昭和62(1987)年九州場所からの連続関脇記録を「9」に伸ばし、玉錦、あこがれの初代若乃花、長谷川の「8」を抜く新記録をつくっている。

 しかし、逆鉾が飛び上がったのはもっと別の理由だった。「東関脇」の自分の四股名と並ぶ「西関脇」に寺尾の四股名を見つけたからである。この兄弟同時関脇というのは史上初。これまで自ら胸を貸し、一緒に苦労してきたかわいい末弟だけに、この“同列”にはとても言葉では言い表せないものがあったのだ。

「自分のこと以上にうれしい、というのは、あのことを言うんでしょうねえ。また、あの場所、貴ノ嶺さんが入幕し、うちの部屋の幕内力士が当時の最多勢力の6人になったんですよ。父は、そっちのほうを喜びましてね。場所前、父とその6人で一緒に写真を撮り、それを自分の宝にしていました」

 と、井筒親方はしんみりする。

兄弟同時関脇に付いた平成元年春場所前。前列右から逆鉾、寺尾、後列右から井筒親方、貴ノ嶺
写真:月刊相撲

力士生命を奪われた上腕部のケガ

 このときが逆鉾の最も輝いているときだった。好事魔多しのたとえどおり、この翌場所7日目の安芸ノ島(のち関脇安芸乃島、現高田川親方)戦で、左上腕部の二頭筋断裂という怪我を負い、この利き腕の故障が、技能賞を10回も受賞した父が「オレよりずっとうまい。アイツがホントの名人だよ」と脱帽した、三賞9回、金星7個の新モロ差しの名人、逆鉾の力士生命をジワジワと奪っていったのである。

 引退は平成4年の秋場所。このときの番付は、38歳まで現役を務めた父の「最後まで死力を尽くせ」という厳命で、十両尻間近の「東十両11枚目」だった。そして、6年4月、逆鉾はその頑固一徹の父の停年退職に伴い新井筒に。

「一昔前の力士らしい力士を育てたい、というのが自分の夢なんですよ。今の力士は、体の大きさやパワーだけが目立って、ホントのワザが少ないし、言動も、ほかのスポーツ選手と変わらなくなっているでしょう。そうじゃなくて、思わずウーンと唸りたくなるようなワザの切れ味を見せる、浴衣姿のよく似合う、粋な力士を、ね」

 と井筒親方は新しい弟子の育成について熱っぽく語った。

 子は親の背中を見て育つ。現役時代、いつも反発ぱかりしていた父の色に最もよく染まっているのは、この怒られ役だった二男坊かもしれない。(終。次回からは大関・北天佑勝彦編です)

PROFILE
逆鉾伸重◎本名・福薗好昭。昭和36年6月18日、鹿児島県姶良市出身。井筒部屋。182cm124kg。昭和53年初場所、福薗で初土俵。56年名古屋場所新十両、57年夏場所最十両時に逆鉾に改名。同年九州場所新入幕。幕内通算57場所、392勝447敗16休、最高位関脇。殊勲賞5回、技能賞4回。平成4年秋場所限りで引退し、年寄春日山を襲名。6年4月、実父で師匠の停年に伴い井筒部屋を継承する。横綱鶴竜を育てた。

『VANVAN相撲界』平成6年7月号掲載

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