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2026-09-04

「真夏の夜の夢」プロレス夢のオールスター戦を実現に導いた運動部長の東奔西走【プロレス史あの日、あの時1979年8月26日/週刊プロレス】

「夢のオールスター戦」を報じたプロレス1979年9月増刊号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1979年8月26日
「プロレス・夢のオールスター戦」@日本武道館
 
私がプロレスを毎日フォローするようになったのは1968年1月からだったが、その当時のプロレス専門誌はベースボール・マガジン社発行の「プロレス&ボクシング」だけだった。折しも1月3日から国際プロレスのテレビ中継(TBS)が始まったことで「ブーム」に火がついて、同年3月に新・専門誌の「ゴング」が創刊され、そこから二大専門誌の時代が2007年まで39年も続いた。新聞のほうは1966年8月に「スポーツ毎夕」が廃刊になったことで「東京スポーツ(トースポ)の一極支配」が始まったが、1978年初頭から朝刊の「デイリースポーツ」が毎日のようにプロレスを一面で報道するようになり、そこからは「朝刊のデイリー、夕刊のトースポ」という二大新聞の時代になる。これら「競合紙(誌)」は激しい販売競争を繰り広げて「昭和のプロレス黄金時代」を仔細に報道してくれたが、本稿の「夢のオールスター戦」はトースポの主催だったことから、日刊、スポニチ、サンスポ、報知、トーチューなど「朝刊スポーツ軍団」は、極めて小さなスペースでしか前夜の大興行を報道しなかった。ところが、トースポの直接のライバルであるデイリーは一面で大きく扱って、夕刊のトースポ発売に先立って前夜の速報を流した。実質的に「夢のオールスター戦」を仕切った櫻井康雄氏(当時の運動部長)に理由を聞いたことがあるが、「デイリーさんは、わざわざ社長さんと専務が我が社を訪れて、取材、報道の許可をもらいに来てくれた。他の朝刊スポーツ新聞さんは来なかった。デイリーさんがやったことは、できそうでできなかったです」とのことだった。夕刊のトースポにしてみれば、朝刊でここまで大々的にリポートされることには、何のメリットもない。それでも許可したのは、「理屈も何もない。社長がウチに出向いたという仁義の素晴らしさです。それと、当時のデイリーさんは全日本女子プロレスを後援していましたからね。そこに頭を下げられたら、ウチとしては断るなんてケツの穴の小さいことをするわけにはいかない。プロレスを盛り上げようという大義は、ウチにも劣らない会社でした」と即答。とても深イイ話だった。

これと非常に似たケースが、1995年4月2日、東京ドームで開催された13団体参加による「夢の懸け橋・憧夢春爛漫」だった。ベースボール・マガジン社主催興行だったが、「週刊プロレス」の主催興行だったので他のプロレス・マスコミは報道を控えた。16年前のデイリーのように「主催者に頭を下げて」までは報道しようとする雰囲気がなく、翌朝に発行されたスポーツ新聞の扱いは極めてミニマムだった。

1979年は国内に3団体(新日本、全日本、国際)しかなかったことで、「オールスター実現」は、馬場と猪木の二人を納得させることが全てだった。二人の間に立って利害調整が出来た人物は、櫻井氏を置いてほかには絶対に存在していない。櫻井氏はテレビ朝日「ワールドプロレスリング」の解説者だったので、「完全な猪木派」と思われていたが実は馬場夫妻からの信頼も厚く、当時のトースポの本山社長から「会社の記念(創立20周年)行事だから、ウチは一銭も儲けなくていい。興行の収益は全て、3団体に分配してくれ。あとは、全てキミに任せる」と言われたというから、ものすごいミッションを与えられたものだ。こうして一世一代の大興行は成功し、1970年代のプロレスは見事に区切りをつけて、波乱の80年代に突入していった。あの日から47年の歳月が流れた。

流 智美

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