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2019-03-29

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・前の山太郎編 若くして“限界”を知らざるを得なかった悲劇の大関――[その2]

力士の心理も、だんだん高い山を征服したくなる登山家のそれによく似ている。

※写真上=弟弟子の高見山(右)と、激しい稽古を繰り広げた前の山
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】大阪の名門高で野球部員だった前の山は、相撲部に転部し活躍。自信を付けて高校を中退してまでプロの道に進んだが、持ち前の中途半端な性格が邪魔し、大勝ちと大負けを繰り返していた。そんな前の山の前に、ハワイから怪物が現れる――

刺激を受けたハワイからの弟弟子

 前の山の身近なライバルは、前述したように史上初のハワイ出身力士の高見山だった。初土俵は前の山より3年遅かったが、あり余るパワーと体力にものをいわせて出世は急ピッチ。この文字どおり異色の弟弟子に追い越されてなるものか。高見山が入門して以来、前の山の稽古にも一段と熱が入った。

「とにかくジェシー(高見山)というのは、たとえ稽古でも手加減というのを知らなかったからねえ。あの猛烈な突っ張りを食って、オレの口の中は、いつだって切れてグジュグジュ。あれには参ったなあ。しょっぱい味の物はしみて、全然食べられないんだから。また、たまたまその日、調子がよくて芽が出たりすると、なかなか稽古をやめてくれなくてねえ。あれにも参ったな。そのままヤラれっ放しにしとくと、翌日の稽古がまた怖いだろう。だから、何としても、その日のうちにやっつけて勢いを止めておかないといけないんだ。ぶつかり稽古で胸を出してギックリ腰になったこともあったし。ま、ジェシーにはいろいろ苦労させられたよ。でも、その反面、こっちも随分、いい稽古になったのは確か。その意味で、ジェシーにはものすごく感謝しているよ」

 と先代高田川親方(元大関前の山)は高見山との若かりし日の熱闘に思いを馳せた。

 前の山がこの弟弟子に抜かれたのは大関から転落、引退する1年半前の昭和47年(1972)秋場所のことだった。そこまでの8年間、それこそ足元にも近付けさせなかった、というところに、前の山の強烈な自負心が垣間見える。

 こうして前の山は順調に成長。20歳の若さで十両入りし、そこをわずか5場所で卒業すると、41年秋場所には入幕。さらに、10場所後の43年初場所には平幕から一足飛びに関脇に昇進するなど、名門・高砂部屋の星としての地位を着実に固めていった。

 ところが、こんな順風満帆、怖い者知らずの前の山の前にとてつもない強敵が出現した。32回優勝という大記録を作っている大鵬である。

 前の山がこの大横綱に初めて挑んだ42年初場所というと、大鵬が力士としてもっとも脂の乗り切っていたときだった。いくら前の山には、若さと勢いがある、といっても、そう簡単には付け入る隙を与えてくれない。初戦はまさしく鎧袖一触。前の山は、なんとそれから2年半にわたって9回対戦し、その9回とも負けてしまった。それも、すべてこてんぱんにのされての完敗である。

「体は大きいし、力は強いし、その上、相撲がうまい、ときているだろう。もうどうしようもない、というのは、あのことだね。壁、というよりも、山だよ、山。いっぺん、オレが関脇のバリバリのとき、巡業の稽古で胸を借り、最初の2番、何かの弾みでポンポンと勝ったことがあるんだよ。ところが、そのあとは、後ろからいっても、全然歯が立たない。いや、強いのなんのって。あのときは、この世にこんな強い力士がいるのかって、心底思ったな」

 と先代高田川親方はこの偉大な横綱について語っている。

 しかし、いくら相手が無敵で付け入る隙がないからといって、同じプロである以上、黙ってしっぽを巻いてばかりはいられない。

昭和44年秋場所10日目、10回目の対戦でついに大鵬を破る
写真:月刊相撲

急に晴れた山裾の霧

 これが10戦目、という44年秋場所10日目のことだった。前の山は、この大鵬に、立ち合い、思い切って左、右と突っ張って出た。というよりも、顔面を狙って左右のフックを浴びせた、と言ったほうが適切だったかもしれない。

 見るからに破れかぶれの荒っぽい戦法だったが、もうこうでもしない限り、この山のような横綱に対抗できる方法はない、と考え、今までの遠慮を捨てたのだ。

 ところが、この捨て身の突っ張りが大鵬のあごにものの見事に命中。クリーンパンチを浴びた大鵬は、まるでKO寸前のボクサーみたいにガクンとヒザを落とすとヨロヨロっと後退。そのままあっけなく土俵を割ってしまった。前の山のパンチで、軽い脳しんとうを起こしたのだ。

 思いもしなかった形の初勝利。前の山は、耳をつんざくような歓声と拍手の中で、今まで近寄ることさえできなかった山裾の霧が急に晴れて、目の前の頂上への登り口がくっきりと見え、小躍りしている登山家と同じ心境に浸っていた。

 これまでこの大横綱にまるで通じなかったのは、余りにもその偉大さを意識しすぎ、向こうの取り口に合わせ過ぎたせいだった。

 ――人は、必ず人それぞれの持ち味がある。もっと自分に自信を持ち、それを生かす方法を巡らすと、絶対いつか道は開ける。前の山は、この大鵬に9回続けて転がされ、10回目の対戦で勝ったことで、ようやくそのことを悟ったのだ。

「でも、その持ち味を発揮するのも、やっぱり時と場合があるんだよね。あるとき、理事長(当時の出羽海、元横綱佐田の山)のアンマをしたとき、弾みでオレの突っ張りが顔に入ったことがあるんだよ。その翌日、また稽古をつけてもらおうと思い、『お願いします』と土俵に上がったら、『いや、お前はもういいよ』と冷たく断られちゃったもの。あのときは、さすがにちょっぴり考え込んじゃったよなあ」

 と先代高田川親方は苦笑いした。

 自分の持ち味を生かす、ということに目覚めた前の山が、大関、という金的を射止めたのは、この大鵬戦初勝利から5場所後だった。(続)

PROFILE
前の山太郎◎本名・清水和一。昭和20年(1945)3月9日、大阪府守口市出身。高砂部屋。187cm130kg。昭和36年春場所、本名の金島で初土俵。37年夏場所に前の山に改名。40年九州場所新十両、41年秋場所新入幕。44年名古屋場所に前乃山に改名。45年名古屋場所後、大関昇進。46年初場所、前の山に改名。幕内通算46場所、343勝305敗34休、殊勲賞3回、敢闘賞2回。49年春場所で引退し、年寄高田川を襲名、同年4月、分家独立し、高田川部屋を創設。小結剣晃、前頭鬼雷砲らを育てた。平成22年(2010)3月停年。

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