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2019-03-05

私の“奇跡の一枚” 連載5 バブル時代の巡業随行三昧

※写真上=すっかり巡業の常連となり、横綱千代の富士からも「よっ! また来たの」という挨拶代わりのVサインを示されるようになった筆者。写真は平成2年夏巡業でのもの
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。

相撲に学ぶ経営学/銀行の誘惑を逃れた話

 昭和3年(1928)生まれの私は、都心に不動産会社を営んでいるが、昔から大相撲と寄席とカメラを趣味としている。

 相撲歴は、4歳のとき、天竜(元関脇)の新興力士団旗揚げ興行(昭和7年2月)を父に連れられて見に行ったことに始まっている。戦後のメモリアルホールの興行なども覗き、蔵前国技館へはそれこそせっせと通った。そしてさらに相撲にのめり込むことになったのは、知り合いとなって仲良くしていた安念山(のち羽黒山=先代立浪親方)の初優勝(昭和32年5月場所)を目のあたりにしてからである。

 敗戦の年、17歳で上野のガード下で荷物一時預かり業から始まり、石鹸の製造販売などを経て、私の不動産業も目鼻がつき始めたころだった。実社会のほかに、栄枯盛衰の激しい相撲界からなにか学ぼうという思いもあった。

 私は20歳代でぶち当たった朝鮮動乱、その後の38度線問題から来た軍需景気に翻弄された経験があった。また戦前の日米攻防戦でガダルカナルまで行かず、シンガポールまでで停戦していれば、このような惨めな日本にならずにすんでいたのに……という強い思いを持っていた。

 それらから学んだのは、商売というものは、世間と自分の力をよく見計らいながらやっていかないと、必ず痛い目をみるということだった。いずれ大勝負のときが来るにしても、ムードに乗せられ欲張ってはいけない。私はこれだけは肝に銘じていた。

 さて、地道に、誠実に、大衆向け低価格の線を崩さずに商売をやってきた私も、バブル時代に直面することになる。

 それなりの手堅い経営で足元を固めてきた私の会社は、銀行の絶好のねらい目となった。「ぜひ借りてください」「大きく儲けましょうよ」「いくらでも貸します」。そんな勧誘がひっきりなしに来るようになった。これはたまらんと、私の頭に浮かんだのが、この際、好きな相撲を好きなカメラで追いかけてみたいという思いだった。夏休みを兼ねて念願だった地方巡業に付いていってみよう!

 昭和62年夏巡業、私は北陸、東北のほとんどと、北海道奥尻島まで付いて回った。初めての巡業は何もかも新鮮で、中でも千代の富士の稽古の充実ぶり(強い男が一番よく稽古をしている!)と、ご当所力士に対する地元の人の声援の熱さが印象に強く残った。

 千代の富士も最初は物好きなおやじめと笑っていたが、1週間以上も続くと、「いったいどこまで付いてくるつもり?」と呆れ顔で話しかけてくれたことを思い出す。勢いづいた私は秋巡業で中国、冬巡業で九州まで付いて回り、平成に入っても時折巡業地を訪問、何千枚とシャッターを切ったが、飽きることがなかった。

“芸は身を助く”というが、今考えても、好きな大相撲とカメラ三昧の日々を過ごしたうえ、バブルの打撃を受けずにすんだこと、まさに相撲に救われた私だといっても過言ではない。

 ここに掲げたのは平成2年(1990)に撮ったなんでもない巡業スナップだが、それだけに私が「巡業に付いてきて良かった!」という当時の私の気持ちを代表してくれるものとなっている。

語り部=永谷商事社長 永谷浩司(溜会)

月刊『相撲』平成24年6月号掲載

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