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2019-02-08

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・大受久晃編 「牛若丸」を追いまくって生まれた押しへの信念――[その1]

※一途な押しで史上初の三賞独占と大関を手にした大受
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

鉄棒にぶら下がり続けた2年間

 ひょいと、まだ真っ暗な空を振り仰いだ拍子に、ピカッと光るものが目に飛び込んできた。星だ。さすがに午前4時近くともなると、この大都会の空も生き生きとした精気に満ち、星明りを通す透明度を取り戻している。

 大受(初土俵のときの四股名は本名の堺谷、幕下に上がった昭和42年春場所に大受に改名。ここでは便宜上、大受で統一する)は、毎朝の日課になっている公園の鉄棒にぶら下がりながら、夜空を見上げると、いつも満天の星が光っていた故郷の北海道瀬棚郡瀬棚町(現久遠郡せたな町)の友達や、両親のことを久しぶりに思い浮かべた。

「みんな、今ごろ、どうしているかなあ。もしかすると、オレのことは忘れちゃったかもしれないな。なにしろ東京に出てきて、もう2年以上経つんだもの。でも、そのうちに、絶対、新弟子検査に合格してみせるから、一人前の力士になったとき、腰抜かすなよ」

 小さな声でこうつぶやいてみたものの、胸の中はなかなか思うように伸びてくれない自分の背に対するいらだちと、不安で息苦しかった。

 大受が力士になるために上京し、高島部屋に入門したのは昭和37年(1962)6月、中学1年のときだった。

「小さいころから、背はそんなに大きくなかったけど、よく太っていてね。小学校6年のとき、修学旅行で泊まった函館の駅前の江差屋旅館の主人に、『おお、いい体をしているじゃないか。どうだ、お相撲さんにならないか』と声を掛けられたんですよ。その主人は、高島部屋の新弟子のスカウト係もやっていたんです。そして、中学に入ると間もなく親方(高島親方、元大関三根山)が自宅に訪ねてきて。他の部屋からも一つ、入門の話があったんだけど、親方に、わざわざ北海道まで来てもらったんだから、ということで、高島部屋入りすることになったんです。男7人、女3人の10人きょうだいの六男でしたから」

 と引退後、楯山を襲名した元大関大受は、この13歳のときのいきさつを懐かしそうに話す。

 当時は、まだ中学生力士が認められており、部屋の近くの中学に通いながら土俵に上がっている力士がどこの部屋にも何人か、いた。

 しかし、大受は、上京してもスンナリと初土俵を踏むわけにはいかなかった。体重は、新弟子の合格ラインの75キロをはるかに突破していたが、身長が158センチしかなく、規定の173センチより15センチも低かったからだ。

 いかに早く成長し、合格ラインの173センチに到達するか。大受は、上京した日からこの難題と大相撲を取ることになる。

 相撲部屋の朝は早い。特に、高島部屋は師匠の高島親方が早起きで、夏でも、冬でも、午前3時になると、力士たちは一斉にたたき起こされ、稽古が始まった。

 力士見習いの大受も、起きるのは兄弟子たちと一緒だ。ただ、まだ本物の力士ではないので、稽古はさせてもらえない。起きてからやることといったら、部屋中をきれいに掃除し、それが済むと、近くの公園に出掛けて、鉄棒にぶら下がることぐらいだった。そうすることによって少しでも背を伸ばそう、という魂胆なのだ。

 午前4時、というと、夏はほんのりと東の空が紫色に染まり始める時間だが、冬はまだどこを見ても真っ暗だ。かじかんだ手に、冷え切った鉄棒はじんじんと痛かった。

「いいか。最低1時間はぶら下がるんだぞ。そうすると、自分の体重の重みで自然に伸びてくるんだから、分かったな」

 と師匠はいつも言っていたが、とても数分もぶら下がってはいられない。それでも大受は、一日でも早く初土俵を踏みたさに、歯を食いしばって、何度も鉄棒に飛び付いたものだった。

 しかし、いくら努力しても、背は遅々として伸びてくれない。上京して丸2年、中学3年の夏になっても、まだ大受の身長は173センチにほど遠かった。

入門から2年後、ようやく初土俵を踏んだ
写真:月刊相撲

奥の手を使い新弟子検査突破

 もうこうなると、奥の手を使うしかない。頭部へのシリコン注入である。

 このおかげで新弟子検査に合格し、のちに幕内で大活躍した舞の海の出現で、この「化学的」方法もすっかり有名になってしまったが、すでに30年近くも前から、高島部屋には身長不足を補うために頭のテッペンにシリコンを入れている舞の海の先輩たちが何人もいたのだ。

 大受と兄弟弟子で、横綱曙の専用運転手をしていた小山田公一さん(元幕下瑞晃)も、その一人だ。

「自分の場合は1回で済みました。あのときは、とにかく合格したい一心でしたからねえ。おかみさんに連れられて都内の病院に行き、やってもらいましたけど、ちょっぴり複雑な気持ちでしたねえ」

 と小山田さん。

 大受の注入は、初めて新弟子検査を受けた39年秋場所前を皮切りに、次の九州場所前、さらに、その翌場所の40年初場所前の計3回。検査に不合格になるたびに少しずつ行われた。

 そして、40年春場所前。4回目のチャレンジで、ついにこの涙ぐましい努力が実った。実に、北海道から出て来て2年10カ月の合格だった。

「あのときも、歩いて行ったら背が縮むというので、横になったまま、そっとクルマに乗せられ、抱えられるようにして検査場に行った記憶がありますね。それだけに、173センチで合格、という声を聞いたときはうれしかったなあ。帰りは本当に、ピョンピョン、跳んで帰りましたよ。なにしろ部屋の入門は自分のほうが兄弟子なのに、背が低いばかりに後から入ってきた弟弟子たちにどんどん抜かれる、という状態が2年以上も続いていましたからねえ。ところが皮肉なもので、あれほど足りずに苦労していた身長が、初土俵を踏んで半年も経たないうちに、何も特別なことはしないのに、ススッと4~5センチも伸びたんですよ。大体、うちは家系的に晩熟。そのうちに伸びるんじゃないか、とは思っていたけど、あのときだけは、さすがに複雑な心境でしたねえ」

 と、楯山親方はこのとんだ番外の熱戦を振り返った。

 こうしてやっと検査に合格しただけに、力士、というものに対する執着は人一倍。急がば回れ、だ。今に見ておれよ、と大受は、この居ても立ってもいられないような思いで無駄飯を食っていた2年10カ月の間に、プロ根性にたっぷり磨きをかけたのだった。(続)

PROFILE
大受久晃◎本名・堺谷利秋。昭和25年(1950)3月19日、北海道久遠郡せたな町出身。高島部屋。177cm150kg。昭和40年春場所、本名の堺谷で初土俵、42年春場所に大受と改名。44年秋場所新十両、45年夏場所新入幕。48年名古屋場所、大関取りで史上初の三賞独占、場所後に大関昇進。幕内通算42場所、462勝388敗31休、殊勲賞4回、敢闘賞1回、技能賞6回。十両に陥落した昭和52年夏場所4日目、引退。年寄楯山から平成9年に朝日山を襲名、部屋を継承した。27年3月に停年。

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