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2018-12-21

【連載 名力士たちの『開眼』】 横綱・北の湖敏満 編 「ケガの功名」で「死中に活」を拾った怪童――[その3]

※写真上=昭和53年秋場所、5連覇を達成。まさに向かうところ敵なし、の無敵を誇った北の湖
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】関取昇進後、順風満帆な出世を続け、史上最年少で三役に駆け上がった北の湖。関脇昇進の場所で思いもよらないケガを負ってしまうが、このときに体を張って身に付けた速攻相撲が、のちの大横綱をつくったのだ――

偉大な大横綱の記録越えに王手

 百里は九十九里をもって半ばとする、という教えでもわかるように、最後の「詰め」ほど難しいものはない。

 ――面白い。一つ狙ってやろうじゃないか。

 大横綱の道をひた走る北の湖の血があやしく騒いだのは、横綱に昇進して5年目の昭和53年(1978)のことだった。若くして頭角を現し、次々にいろんな記録を更新してきた北の湖だったが、どうしても越えられない山があった。北海道出身の先輩横綱・大鵬である。

 なんでもいいから、この偉大な横綱の土俵上の大記録を破りたい。これが当時26歳の北の湖の胸に巣食っている願望だった。そして、ついにこの53年最後の九州場所で、そのチャンスをつかみ、王手をかけたのだ。それも、何といっぺんに2つも。

 大鵬の優勝回数は32。連続優勝も6回を2度もやっているが、いずれも年の途中から途中まで、という2年に跨ったもので、初場所から九州場所までの完全な年間グランドスラムというのはやっていない。このため、年間最多勝も、昭和38年(1963)の81勝(9敗)が最多だった。

 ところが、この年に北の湖は、初場所から秋場所まで5場所連続して制覇。この年間グランドスラムにあと1場所と迫ったのだ。さらに、2度の全勝優勝が大きくモノを言って、ここまでの勝ち星のトータルも71。

 つまり、この九州場所で11勝以上を挙げて優勝すると、大鵬ができなかった、年6場所制になって初のグランドスラムと、年間最多勝の両方の記録を達成することになるのだった。

 強気一点張り、しかも、ちょうど脂の乗り切っていたときだけに、

「こんなチャンスを逃してなるものか。任せておけ」

 と、北の湖が目を吊り上げて土俵に上がったのは言うまでもない。そして、当時の充実ぶりを象徴するように、なんなくその82勝目を。

昭和60年9月29日、断髪式で師匠の三保ケ関親方(元大関増位山太志郎)と
写真:月刊相撲

永遠に失われた年間グランドスラム

 初日、いかにも北の湖らしく気負い過ぎて、麒麟児に不覚をとったが、2日目から一気に11連勝し、12日目にあっさり大鵬の記録を塗り替えてしまったのだ。

「やったあ!」

 滅多に自己陶酔に陥るタイプではないが、さすがにこのときの北の湖は、体の芯がしびれるような快感に酔った。

 しかし、まだもう一つの目標が残っている。この12日目の時点で、優勝争いは、若乃花と輪島が全勝でトップを走り、北の湖が1敗で追いかけるという展開だった。逆転圏内だ。

「まだ2人との直接対決が残っている。引きずり下ろせばいいんだろう」

 と祝杯を上げながら、北の湖は賜盃の横取りに自信たっぷりだった。

 ところが、この最多勝記録達成の翌日、北の湖は前日までとはまったく違う自分を発見してがく然とした。前日の祝杯ですっかり気持ちが緩んでしまい、出番が近付いてきても、これまでのように体が燃えてこないのだ。いくら無敵の北の湖でも、熱気を失っては並の力士だった。

 こうして、この日を境に北の湖は信じられない不出来な相撲を繰り返して3連敗。優勝どころか、82勝に一つも上積みできずに千秋楽を終える羽目になってしまったのだった。

「突き落とし、寄り切り、寄り切り、まだあのときの3連敗の決まり手を覚えていますよ。もしあのとき、82勝と優勝が同時進行の形で展開していたら、おそらく6連覇もできたんじゃないかなあ。今なら誰にも負けない、という自信もあったし。やっぱり勝負事は、すべてが終わるまで気を抜いちゃダメ。あのときは、いかに詰めが大事か、ということをつくづく思い知らされましたよ」

 と北の湖親方。こうして年間グランドスラムの記録達成のチャンスは、永遠に失われたのだった。

 優勝回数24。横綱在位63場所。60年9月29日、両国国技館で行われた北の湖の引退相撲には、その憎々しいほど強かった相撲や、飾り気のない人柄を愛する数多くのファンが詰めかけ、367人がマゲにハサミを入れた。この人数は、その出世スピードと同じように、当時の史上最多だった。(終。次回からは関脇・黒姫山秀男編です)

PROFILE
北の湖敏満◎本名・小畑敏満。昭和28年(1953)5月16日、北海道有珠郡壮瞥町出身。三保ケ関部屋。179cm169kg。昭和42年初場所初土俵、46年夏場所新十両、47年初場所新入幕。49年初場所初優勝、場所後、大関昇進。同年名古屋場所後、史上最年少の21歳2カ月で第
55代横綱に昇進。幕内通算78場所、804勝247敗107休、優勝24回、殊勲賞2回、敢闘賞1回。昭和60年初場所、引退。一代年寄を贈られ、同年12月、北の湖部屋創設。平成14年2月、相撲協会理事長に就任。在任中の27年11月20日没、62歳。

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